高校生物では、電子伝達系が内膜を挟んで $\mathrm{H^+}$ の濃度勾配をつくり、$\mathrm{H^+}$ がATP合成酵素を通って戻るときにATPが合成される、と学びます。
しかし、この「濃度勾配」にはどれほどの力があるのでしょうか。$\mathrm{H^+}$ 1個が膜を横切るとき、どれだけのエネルギーが得られ、何分子のATPを合成できるのでしょうか。
この記事では、ピーター・ミッチェルが提唱した化学浸透圧説の核心であるプロトン駆動力(proton-motive force)を定量的に理解します。
$\mathrm{H^+}$ を動かす力は、電気的な膜電位と化学的なpH差の二成分からなり、これを定量化することで「1分子のATPを合成するのに何個の $\mathrm{H^+}$ が必要か」という問いに答えられるようになります。
さらに、ATP合成酵素が分子モーターとして回転する驚くべきメカニズムに迫ります。
高校生物で学ぶ呼吸の最終段階を整理しましょう。解糖系とクエン酸回路で生じた $\mathrm{NADH}$ と $\mathrm{FADH_2}$ は、ミトコンドリア内膜の電子伝達系に電子を渡します。電子が複合体I、III、IVを通過する過程で、$\mathrm{H^+}$ がマトリックス側から膜間腔側へ能動的に汲み出されます。
その結果、膜間腔の $\mathrm{H^+}$ 濃度がマトリックスより高くなり、$\mathrm{H^+}$ の濃度勾配(電気化学的勾配)が形成されます。この勾配に従って $\mathrm{H^+}$ がATP合成酵素($\mathrm{F_oF_1}$-ATPase)を通ってマトリックスに戻るとき、そのエネルギーを利用してADPとリン酸からATPが合成されます。これが化学浸透圧説(chemiosmotic hypothesis)の概要であり、高校の教科書に記載されている内容です。
高校ではさらに、グルコース1分子の好気呼吸で最大約38分子(教科書によっては約30〜32分子)のATPが生じること、そのうち大部分が電子伝達系に由来することも学びます。
しかし、ここで疑問が残ります。「$\mathrm{H^+}$ の濃度勾配でATPができる」とは、定量的にはどういうことなのでしょうか。勾配の「力」はどう測り、ATP 1分子をつくるのに $\mathrm{H^+}$ は何個必要なのでしょうか。次のセクションで、大学の生化学がこの問いにどう答えるかを見ていきます。
$\mathrm{H^+}$ を膜の片側から反対側へ移動させる力(プロトン駆動力 $\Delta p$)は、電気的な力(膜電位 $\Delta\psi$)と化学的な力(pH差 $\Delta\mathrm{pH}$)の二成分からなります。この二つを足し合わせた $\Delta p$ がATP合成を駆動するエネルギー源です。
$\Delta p$ の単位はボルト(V)で表され、典型的なミトコンドリアでは約 $0.18$〜$0.20 \, \mathrm{V}$(180〜200 mV)です。B-4-1で学んだ $\Delta G$ の概念を使えば、$\mathrm{H^+}$ 1 mol が膜を横切るときに得られる自由エネルギーは $\Delta G = -F \cdot \Delta p$ として計算でき、これとATP合成の $\Delta G$ を比較することで、ATP 1分子あたりに必要な $\mathrm{H^+}$ の数を見積もれます。
では、プロトン駆動力を構成する二つの成分を、一つずつ定量的に理解していきましょう。
$\mathrm{H^+}$ は電荷を持つイオンです。したがって、$\mathrm{H^+}$ が膜を横切るときに受ける力には、(1) 濃度差に由来する化学的な力と、(2) 電位差に由来する電気的な力の両方が含まれます。
B-4-1で学んだ自由エネルギーの考え方を拡張すると、イオンが膜の一方(P側:膜間腔、正電荷が多い側)からもう一方(N側:マトリックス、負電荷が多い側)へ移動するときの自由エネルギー変化は、次のように表されます。
$$\Delta G = RT \ln \frac{[\mathrm{H^+}]_\mathrm{N}}{[\mathrm{H^+}]_\mathrm{P}} + F \Delta\psi$$
ここで各記号の意味を確認します。
$\mathrm{H^+}$ 濃度は通常pHで表します。$\mathrm{pH} = -\log_{10}[\mathrm{H^+}]$ なので、$[\mathrm{H^+}] = 10^{-\mathrm{pH}}$ です。これを代入しましょう。
Step 1:濃度比を対数で書き直す。
$$RT \ln \frac{[\mathrm{H^+}]_\mathrm{N}}{[\mathrm{H^+}]_\mathrm{P}} = RT \ln \frac{10^{-\mathrm{pH_N}}}{10^{-\mathrm{pH_P}}} = RT \ln 10^{(\mathrm{pH_P} - \mathrm{pH_N})}$$
Step 2:自然対数を常用対数に変換する($\ln 10^x = x \ln 10 = 2.303 x$)。
$$= 2.303 \, RT \, (\mathrm{pH_P} - \mathrm{pH_N})$$
ここで $\Delta\mathrm{pH} = \mathrm{pH_P} - \mathrm{pH_N}$ と定義します。P側(膜間腔)はN側(マトリックス)よりpHが低い($\mathrm{H^+}$ が多い)ので、$\Delta\mathrm{pH} < 0$ です。
Step 3:まとめる。
$$\Delta G = 2.303 \, RT \, \Delta\mathrm{pH} + F\Delta\psi$$
$\mathrm{H^+}$ がP側からN側に流れるとき(ATP合成の方向)、$\Delta\mathrm{pH} < 0$ かつ $\Delta\psi < 0$ なので、$\Delta G < 0$(自発的に進む)。
上の $\Delta G$ を $F$ で割ると、電位の次元(ボルト)を持つ量が得られます。これがプロトン駆動力(proton-motive force, pmf)$\Delta p$ です。
$$\Delta p = \Delta\psi - \frac{2.303 \, RT}{F} \Delta\mathrm{pH}$$
$\Delta\psi$:膜電位(N側 $-$ P側、典型的に $-140 \, \mathrm{mV}$)。 $\Delta\mathrm{pH} = \mathrm{pH_P} - \mathrm{pH_N}$(典型的に $-1.0$ 程度)。 $2.303RT/F$ は $T = 310 \, \mathrm{K}$(体温 $37\,^\circ\mathrm{C}$)で約 $61.5 \, \mathrm{mV}$ です。 $\mathrm{H^+}$ 1 mol がP側からN側へ移動するときの自由エネルギー変化は $\Delta G = -F \cdot \Delta p$ で与えられます。
符号に注意が必要です。$\Delta p$ は「P側からN側へ $\mathrm{H^+}$ を動かす力」を表し、負の値をとるように定義されています。$\Delta\psi < 0$(マトリックスが負)、$\Delta\mathrm{pH} < 0$(膜間腔のpHが低い)なので、$\Delta p$ の式の第2項 $-\frac{2.303RT}{F}\Delta\mathrm{pH}$ は負の量にマイナスをかけて負になり、$\Delta\psi$ と同じ方向に寄与します。つまり、電気的な力と化学的な力は同じ方向に $\mathrm{H^+}$ を押すのです。
典型的なミトコンドリアの条件で $\Delta p$ を計算してみましょう。
$$\Delta p = (-140) - 61.5 \times (-1.0) = -140 - (-61.5) = -140 + 61.5 = \text{(}$$
計算を丁寧にやり直します。式に代入すると、
$$\Delta p = \Delta\psi - \frac{2.303RT}{F}\Delta\mathrm{pH} = -140 - 61.5 \times (-1.0) = -140 + 61.5$$
ここで注意が必要です。上の符号の取り方は、$\Delta\psi$ と $\Delta\mathrm{pH}$ の定義に依存します。もう一度整理しましょう。
混乱の原因:教科書によって $\Delta\psi$ や $\Delta\mathrm{pH}$ の定義(どちら側を引くか)が異なるため、符号がばらつく。
確実な方法:$\mathrm{H^+}$ 1 mol がP側からN側へ移動するときの自由エネルギー変化 $\Delta G$ を直接計算する。膜電位成分は $\mathrm{H^+}$ が正の側から負の側へ移動するので $\Delta G_\mathrm{elec} = F \cdot (\psi_\mathrm{N} - \psi_\mathrm{P}) < 0$(エネルギーを放出)。pH成分は $\mathrm{H^+}$ が高濃度側から低濃度側へ移動するので $\Delta G_\mathrm{chem} = 2.303RT(\mathrm{pH_P} - \mathrm{pH_N}) < 0$。両方とも負であり、合計の $|\Delta G|$ が大きいほどATP合成に有利。
混乱を避けるため、$|\Delta p|$ すなわちプロトン駆動力の絶対値で考えましょう。膜電位成分の寄与は $|\Delta\psi| = 140 \, \mathrm{mV}$、pH成分の寄与は $\frac{2.303RT}{F} \times |\Delta\mathrm{pH}| = 61.5 \times 1.0 = 61.5 \, \mathrm{mV}$ です。両者を足して、
$$|\Delta p| = 140 + 61.5 \approx 200 \, \mathrm{mV}$$
つまり、$\mathrm{H^+}$ 1 mol がミトコンドリア内膜を横切るときの自由エネルギー変化は、
$$|\Delta G| = F \times |\Delta p| = 96{,}485 \times 0.200 \approx 19.3 \, \mathrm{kJ/mol}$$
この値の意味は大きいです。細胞内条件でのATP合成の $\Delta G$ は約 $+50$〜$54 \, \mathrm{kJ/mol}$(B-4-1参照)なので、ATP 1分子を合成するには $\mathrm{H^+}$ が最低でも $50/19.3 \approx 2.6$ 個必要です。熱力学的効率を考慮すると、実際にはさらに多くの $\mathrm{H^+}$ が必要であり、これが次のセクションで扱うP/O比の議論につながります。
ここまでで、プロトン駆動力を定量的に扱う道具が揃いました。次は、この力を使って実際にどれだけのATPが合成されるか ── P/O比の議論に進みます。
P/O比とは、電子伝達系で酸素原子1個が還元される($\frac{1}{2}\mathrm{O_2} \to \mathrm{H_2O}$)ときに合成されるATPの数のことです。「P」はリン酸化(ADP + Pi $\to$ ATP)、「O」は酸素原子を指します。電子は2個ずつ(1対として)$\mathrm{NADH}$ や $\mathrm{FADH_2}$ から渡されるので、P/O比は「電子1対あたりのATP収量」とも言えます。
P/O比を求めるには、(1) 電子1対が電子伝達系を通過するときに汲み出される $\mathrm{H^+}$ の数と、(2) ATP 1分子を合成するのに必要な $\mathrm{H^+}$ の数を知る必要があります。
まず (1) について。$\mathrm{NADH}$ からの電子は複合体I → ユビキノン → 複合体III → シトクロム$c$ → 複合体IV の経路を通り、各複合体で $\mathrm{H^+}$ が汲み出されます。
| 複合体 | 汲み出す $\mathrm{H^+}$ の数 (電子1対あたり) |
役割 |
|---|---|---|
| 複合体I(NADHデヒドロゲナーゼ) | 4 | NADHの電子をユビキノンに渡す |
| 複合体III(シトクロム$bc_1$複合体) | 4 | ユビキノンの電子をシトクロム$c$に渡す |
| 複合体IV(シトクロム$c$酸化酵素) | 2 | 電子を $\mathrm{O_2}$ に渡して $\mathrm{H_2O}$ を生成 |
| 合計(NADHから) | 10 |
$\mathrm{FADH_2}$ からの電子は複合体IIからユビキノンに渡され、複合体Iをバイパスします。したがって、$\mathrm{FADH_2}$ 由来では複合体III(4個)+ 複合体IV(2個)= 6個の $\mathrm{H^+}$ が汲み出されます。
次に (2) について。ATP合成酵素の $\mathrm{F_o}$ 部分(膜内回転子)は $c$ サブユニットのリングで構成されており、$\mathrm{H^+}$ 1個が $c$ サブユニット1個を通過するとリングが1ステップ回転します。哺乳類のミトコンドリアでは $c$ リングは8個の $c$ サブユニットからなるため、リングが1回転するのに 8個の $\mathrm{H^+}$ が必要です。
一方、$\mathrm{F_1}$ 部分は $\alpha_3\beta_3$ の構造を持ち、1回転あたり $\beta$ サブユニット3つがそれぞれ1分子ずつ、合計3分子のATPを合成します。したがって、ATP 1分子あたりの $\mathrm{H^+}$ コストは $8/3 \approx 2.7$ 個です。
ただし、合成されたATPをミトコンドリアマトリックスから細胞質に輸送するADP/ATトランスロカーゼと、リン酸をマトリックスに取り込むリン酸トランスポーターの駆動にも $\mathrm{H^+}$ が消費されます。この輸送コストはATP 1分子あたり約1個の $\mathrm{H^+}$ と見積もられています。したがって、ATP 1分子の正味のコストは約 $8/3 + 1 \approx 3.7$ 個の $\mathrm{H^+}$ です。
$$\mathrm{P/O}(\mathrm{NADH}) = \frac{10}{8/3 + 1} = \frac{10}{11/3} = \frac{30}{11} \approx 2.5$$
$$\mathrm{P/O}(\mathrm{FADH_2}) = \frac{6}{11/3} = \frac{18}{11} \approx 1.5$$
分子:電子1対が汲み出す $\mathrm{H^+}$ の数(NADH: 10, $\mathrm{FADH_2}$: 6)。分母:ATP 1分子の正味の $\mathrm{H^+}$ コスト($c$ リング8個/ATP 3分子 + 輸送コスト1 = 11/3)。
この結果は重要です。高校では「NADH 1分子あたり3 ATP、$\mathrm{FADH_2}$ 1分子あたり2 ATP」という「きれいな」整数が使われていましたが、実際のP/O比は約 2.5 と 1.5 であり、整数ではありません。
誤:NADHからは正確に3 ATPが生じ、$\mathrm{FADH_2}$ からは正確に2 ATPが生じる。
正:P/O比は $c$ リングのサブユニット数と $\mathrm{F_1}$ の触媒部位数の比で決まるため、一般に整数にはならない。哺乳類では $c_8/\beta_3$ から P/O $\approx$ 2.5(NADH)および 1.5($\mathrm{FADH_2}$)。生物種によって $c$ リングのサブユニット数が異なるため(酵母では $c_{10}$)、P/O比も変わる。
P/O比 = 2.5 および 1.5 を用いてグルコース1分子あたりのATP収量を再計算しましょう。解糖系で2 ATP + 2 NADH、ピルビン酸の酸化で2 NADH、クエン酸回路で2 GTP + 6 NADH + 2 $\mathrm{FADH_2}$ が生じるので、
| 経路 | 直接リン酸化 | NADH | $\mathrm{FADH_2}$ | 酸化的リン酸化による ATP |
|---|---|---|---|---|
| 解糖系 | 2 ATP | 2 | 0 | $2 \times 2.5 = 5$(ただし注あり) |
| ピルビン酸脱水素酵素 | 0 | 2 | 0 | $2 \times 2.5 = 5$ |
| クエン酸回路 | 2 GTP | 6 | 2 | $6 \times 2.5 + 2 \times 1.5 = 18$ |
| 合計 | 4 | 10 | 2 | $10 \times 2.5 + 2 \times 1.5 = 28$ |
直接リン酸化の 4 ATP + 酸化的リン酸化の 28 ATP = 合計約 30〜32 ATP(解糖系のNADHをミトコンドリアに運ぶシャトル系の種類により、2.5 ATP または 1.5 ATP になるため幅が生じる)。
$c$ リングの $c$ サブユニット数は生物種によって異なります。酵母($S. cerevisiae$)では $c_{10}$、植物葉緑体では $c_{14}$、ある種の細菌では $c_{11}$〜$c_{15}$ です。$c$ サブユニット数が多いほどATP 1分子あたりの $\mathrm{H^+}$ コストが増し、P/O比は低下しますが、より小さなプロトン駆動力でもATP合成が可能になるという利点があります。進化は環境に応じて $c$ リングの大きさを最適化してきたと考えられています。
P/O比の議論で、電子伝達とATP合成の「帳尻」が合うことを確認しました。しかし、ATP合成酵素はどのような仕組みで $\mathrm{H^+}$ の流れをATP合成に変換しているのでしょうか。次のセクションでは、この分子モーターの驚くべき回転メカニズムに迫ります。
ATP合成酵素は、大きく分けて膜内部分 $\mathrm{F_o}$ と膜から突き出した部分 $\mathrm{F_1}$ の2つのドメインからなります。
1970年代、ポール・ボイヤー(Paul Boyer)は結合変換機構(binding change mechanism)を提唱しました。この仮説の核心は次の点です。
ATP合成酵素の触媒部位($\beta$ サブユニット)は、ADPとPiからATPを合成すること自体にはほとんどエネルギーを必要としません。実際に活性部位上でのATP合成の平衡定数は約1であり、合成と分解がほぼ等確率で起こります。エネルギーが必要なのは、合成されたATPを活性部位から放出するステップです。ATPは活性部位に非常に強く結合しているため、これを引き剥がすのに大きなエネルギーが必要なのです。
ボイヤーのモデルでは、3つの $\beta$ サブユニットが同時に異なる3つの状態をとります。
$\gamma$ サブユニットが $120°$ 回転するたびに、3つの $\beta$ サブユニットが同時に状態を切り替えます(O $\to$ L $\to$ T $\to$ O)。$\gamma$ が1回転($360°$)すると、3つの $\beta$ サブユニットそれぞれが一巡し、合計3分子のATPが合成・放出されます。
ボイヤーの仮説は、1994年にジョン・ウォーカー(John Walker)が $\mathrm{F_1}$ の結晶構造を解いたことで実証されました。X線結晶構造解析により、3つの $\beta$ サブユニットが確かに異なるコンフォメーションをとっていることが明らかになったのです。ボイヤーとウォーカーは、この業績により1997年にノーベル化学賞を受賞しました。
結晶構造は「3つの $\beta$ が異なる構造をとる」ことを示しましたが、$\gamma$ サブユニットが本当に回転するのかは間接的な証拠でした。この問いに決定的な答えを出したのが、1997年の吉田賢右と野地博行のグループによる1分子実験です。
彼らは、$\mathrm{F_1}$ をガラス基板に固定し、$\gamma$ サブユニットの先端に蛍光標識したアクチンフィラメント(長さ約1〜4 $\mu\mathrm{m}$)を取り付けました。そしてATPを加えると(ATP合成の逆反応 = ATP加水分解が起こる)、アクチンフィラメントが一方向に回転する様子が蛍光顕微鏡で直接観察されたのです。
回転は $120°$ ステップで不連続に起こり、これはボイヤーの結合変換機構の予測と完全に一致しました。この実験は、ATP合成酵素が回転分子モーターであることの最初の直接的な証拠となりました。
ATP合成酵素の直径はわずか約10 nm。$\mathrm{H^+}$ の流入が $c$ リングを物理的に回転させ、中心軸 $\gamma$ を介して $\mathrm{F_1}$ の触媒部位の構造変換を駆動します。1回転あたり3分子のATPが合成され、毎秒約100回転(1秒間に300分子のATP合成)という驚異的な速度で働きます。これはナノスケールの精巧な機械であり、人工のナノマシンを凌ぐ効率を持ちます。
ATP合成酵素の回転メカニズムは、生化学の理解が分子の「静的な構造」から「動的な機械」へと進化したことを象徴しています。次のセクションでは、この化学浸透圧説がどのような歴史的経緯で受け入れられたか、そして脱共役という現象がどのような生理的意義を持つかを見ていきます。
1961年、ピーター・ミッチェル(Peter Mitchell)は化学浸透圧仮説を発表しました。当時の生化学の主流は、電子伝達系のエネルギーが「高エネルギー中間体」(基質レベルのリン酸化のような化学的中間体)を経てATP合成に使われるという化学共役仮説でした。ミッチェルの「膜を挟んだ $\mathrm{H^+}$ 勾配がエネルギーを伝える」というアイデアは、あまりに斬新すぎて激しい反対に遭いました。
しかし、1960年代から1970年代にかけて、以下の実験が仮説を支持しました。
ミッチェルは1978年にノーベル化学賞を受賞しました。化学浸透圧説が受け入れられるまでに約15年を要した歴史は、科学におけるパラダイムシフトの典型例として語り継がれています。
上で触れた脱共役剤は毒物ですが、生体にも「意図的に」$\mathrm{H^+}$ 勾配を消費する仕組みがあります。それが脱共役タンパク質(UCP: uncoupling protein)です。
新生児や冬眠動物に多い褐色脂肪組織では、UCP1(サーモジェニン)が内膜に存在し、$\mathrm{H^+}$ をATP合成酵素を通さずにマトリックスに流入させます。$\mathrm{H^+}$ 勾配のエネルギーはATP合成ではなく熱に変換され、これが寒冷環境での体温維持に役立ちます。
プロトン駆動力の定量的理解があれば、この現象の意味は明確です。$|\Delta p| \approx 200 \, \mathrm{mV}$ のエネルギーが、ATPの化学エネルギーに変換される代わりに、直接的に熱として散逸するのです。電子伝達系自体は正常に働き続けるため、脂肪酸の酸化が促進されます。これが褐色脂肪組織の「脂肪を燃やして熱を出す」機能の分子基盤です。
2,4-ジニトロフェノール(DNP)は1930年代に「やせ薬」として使用されたことがあります。脱共役により脂肪の酸化が促進され体重減少が起こりますが、体温の異常上昇(高体温症)を引き起こし、死亡例が相次いだため使用禁止となりました。プロトン駆動力を人為的に消失させることの危険性を示す例です。
化学浸透圧説は、呼吸だけでなく光合成にも適用される普遍的な原理です。次の記事 B-4-4 では、光合成の電子伝達(Z-スキーム)を酸化還元電位で定量的に理解し、チラコイド膜でのプロトン駆動力の形成を見ていきます。
化学浸透圧説とプロトン駆動力の概念は、代謝の熱力学の中核に位置し、以下のトピックと密接に関連しています。
それでは最後に、本記事の要点をまとめましょう。
Q1. プロトン駆動力 $\Delta p$ を構成する二つの成分は何ですか。ミトコンドリアでは、どちらの寄与が大きいですか。
Q2. 哺乳類のミトコンドリアでは、ATP合成酵素の $c$ リングが1回転するのに何個の $\mathrm{H^+}$ が必要で、何分子のATPが合成されますか。
Q3. P/O比が整数にならない理由を、ATP合成酵素の構造に基づいて説明してください。
Q4. 吉田・野地の1分子実験では、ATP合成酵素のどの部分に何を取り付けて、何を観察しましたか。
あるミトコンドリアで $\Delta\psi = -160 \, \mathrm{mV}$、$\Delta\mathrm{pH} = -0.5$(膜間腔のpHがマトリックスより0.5低い)であった。体温($T = 310 \, \mathrm{K}$)でのプロトン駆動力の絶対値 $|\Delta p|$ を求めよ。ただし $2.303RT/F = 61.5 \, \mathrm{mV}$ とする。
膜電位成分の寄与:$|\Delta\psi| = 160 \, \mathrm{mV}$
pH成分の寄与:$\frac{2.303RT}{F} \times |\Delta\mathrm{pH}| = 61.5 \times 0.5 = 30.8 \, \mathrm{mV}$
$$|\Delta p| = 160 + 30.8 = 190.8 \approx 191 \, \mathrm{mV}$$
$|\Delta\mathrm{pH}|$ が小さい分、pH成分の寄与が小さくなっています。それでもプロトン駆動力は約 $190 \, \mathrm{mV}$ あり、ATP合成には十分です。$\mathrm{H^+}$ 1 mol あたりの自由エネルギーは $F \times 0.191 \approx 18.4 \, \mathrm{kJ/mol}$ です。
NADHの電子1対は電子伝達系で10個の $\mathrm{H^+}$ を汲み出す。ATP 1分子あたりの正味の $\mathrm{H^+}$ コストを $11/3$ として、NADH 1分子あたりのP/O比を求めよ。また、$\mathrm{FADH_2}$ の電子1対が6個の $\mathrm{H^+}$ を汲み出す場合のP/O比も求めよ。
$$\mathrm{P/O(NADH)} = \frac{10}{11/3} = \frac{30}{11} \approx 2.73 \approx 2.5$$
$$\mathrm{P/O(FADH_2)} = \frac{6}{11/3} = \frac{18}{11} \approx 1.64 \approx 1.5$$
正確な値は $30/11$ と $18/11$ ですが、教科書では丸めて 2.5 と 1.5 とすることが多いです($c_{10}$ の酵母では $10/3 + 1 = 13/3$ がコストとなり、P/O比が異なります)。大切なのは、P/O比が $c$ リングのサブユニット数に依存する非整数であるという点です。
褐色脂肪組織のミトコンドリアに存在する脱共役タンパク質UCP1は、ATP合成酵素を介さずに $\mathrm{H^+}$ をマトリックスに流入させる。以下の問いに答えよ。
(a) UCP1が活性化すると、$\mathrm{H^+}$ 勾配($\Delta p$)はどう変化するか。
(b) $\mathrm{H^+}$ 勾配のエネルギーはどうなるか。ATP合成との関係を説明せよ。
(c) 電子伝達系の活性(酸素消費速度)はどう変化するか。理由を述べよ。
(a) UCP1が $\mathrm{H^+}$ を流入させるため、膜間腔とマトリックスの $\mathrm{H^+}$ 濃度差が縮小し、$|\Delta p|$ が低下する。
(b) $\mathrm{H^+}$ 勾配のエネルギーはATP合成ではなく熱として散逸する。ATP合成酵素を通る $\mathrm{H^+}$ の流れが減少するため、ATP合成速度は低下する。
(c) 電子伝達系の活性は増加する。$|\Delta p|$ が低下すると、$\mathrm{H^+}$ の汲み出しに対する逆圧が減るため、電子伝達系はより速く電子を伝達し、酸素消費速度が増加する。結果として、脂肪酸の酸化が促進される。
通常の呼吸では、高い $\Delta p$ が電子伝達系に「背圧」をかけて電子の流れを抑制しています(呼吸調節)。UCP1がこの圧力を解放すると、電子伝達系はフル稼働し、基質の酸化が促進されます。これが褐色脂肪組織の「脂肪を燃やして熱を出す」仕組みの分子的基盤です。
グルコース1分子の好気呼吸で生じるNADHは合計10分子、$\mathrm{FADH_2}$ は2分子である(解糖系で2 NADH、ピルビン酸の酸化で2 NADH、クエン酸回路で6 NADH + 2 $\mathrm{FADH_2}$)。P/O比をNADH: 2.5、$\mathrm{FADH_2}$: 1.5として、以下の問いに答えよ。
(a) 酸化的リン酸化で合成されるATPの数を計算せよ。ただし、解糖系のNADHはリンゴ酸-アスパラギン酸シャトルでミトコンドリアに運ばれるとする(P/O = 2.5)。
(b) 解糖系のNADHがグリセロール3-リン酸シャトルで運ばれる場合($\mathrm{FADH_2}$ としてミトコンドリアに渡される)、合計ATPはいくつになるか。
(a) 酸化的リン酸化:$10 \times 2.5 + 2 \times 1.5 = 25 + 3 = 28$ ATP。基質レベルのリン酸化:$2 + 2 = 4$ ATP(GTP含む)。合計 $28 + 4 = \mathbf{32}$ ATP。
(b) 解糖系の2 NADHが $\mathrm{FADH_2}$ として渡される場合、酸化的リン酸化は $(10 - 2) \times 2.5 + (2 + 2) \times 1.5 = 20 + 6 = 26$ ATP。合計 $26 + 4 = \mathbf{30}$ ATP。
シャトルの違いにより 2 ATP の差が生じます。リンゴ酸-アスパラギン酸シャトルは心臓・肝臓で主に使われ、グリセロール3-リン酸シャトルは骨格筋・脳で主に使われます。高校で「約38 ATP」と習った値は旧い見積もり(P/O = 3, 2)に基づくもので、現在の教科書では「約30〜32 ATP」が採用されています。
Racker & Stoeckenius(1974)は、バクテリオロドプシン(光駆動 $\mathrm{H^+}$ ポンプ)とATP合成酵素をリポソームに再構成する実験を行った。以下の問いに答えよ。
(a) この実験で光を照射すると何が起こるか。リポソームの内部と外部の $\mathrm{H^+}$ 濃度の変化を説明せよ。
(b) ATP合成が観察されたことは、化学浸透圧仮説のどの点を支持するか。化学共役仮説(高エネルギー中間体仮説)との対比で論じよ。
(c) この実験でATP合成酵素の $\mathrm{F_o}$ 部分に脱共役剤(DNP)を加えると何が起こるか予測し、その理由を述べよ。
(a) バクテリオロドプシンは光エネルギーを利用してリポソームの外側から内側へ $\mathrm{H^+}$ を汲み入れる。その結果、リポソーム内部の $\mathrm{H^+}$ 濃度が上昇し(pHが低下し)、膜を挟んだ $\mathrm{H^+}$ 勾配が形成される。
(b) この系には電子伝達系が存在しない。にもかかわらずATP合成が起こったことは、ATP合成に必要なのは電子伝達系そのものや高エネルギー化学中間体ではなく、膜を挟んだ $\mathrm{H^+}$ 勾配(プロトン駆動力)のみであることを示している。化学共役仮説では、電子伝達系の特定の中間体がATP合成に必要とされるため、電子伝達系を含まない系でのATP合成を説明できない。
(c) DNPを加えると、DNPが脂質二重層を透過して $\mathrm{H^+}$ を運搬するため、$\mathrm{H^+}$ 勾配が消失する。プロトン駆動力がなくなるため、ATP合成は停止する。これも化学浸透圧仮説の予測と一致する。
この実験は化学浸透圧仮説を決定的に支持した「エレガントな」再構成実験です。異なる生物種の2つのタンパク質(古細菌のバクテリオロドプシンとウシ心臓のATP合成酵素)を人工膜に組み込んで機能させた点がポイントです。$\mathrm{H^+}$ 勾配という「共通通貨」を通じて、由来の異なるタンパク質が協調して働くことは、化学浸透圧説の普遍性を強力に示しています。