ショウジョウバエとヒトは見た目がまったく異なりますが、体の前後軸を決める遺伝子は驚くほどよく似ています。
高校生物ではビコイドやナノスが前後軸を決定することを学びましたが、大学の進化発生生物学(Evo-Devo)はさらに深い問いを立てます。
「なぜ昆虫にも脊椎動物にも同じ遺伝子が使われているのか。そして、同じ遺伝子を使いながら、なぜこれほど多様な形態が生まれるのか。」
その答えの核心は、形態の多様性が「新しい遺伝子の発明」ではなく「既存の遺伝子の使い方の変化」、とりわけシス制御要素(エンハンサー)の進化によって生まれるという洞察です。
この記事では、Hox遺伝子クラスターの共線性から深い相同性、そしてヘビやカメの形態がどのようにして進化したかまで、Evo-Devoの中心的概念を一本の筋で辿ります。
高校生物では、発生における体軸の決定と形態の多様性について、次のような内容を学びます。
高校生物で最も詳しく扱われる軸決定の例は、キタショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の前後軸です。 母性効果遺伝子の産物であるビコイド(Bicoid)タンパク質は卵の前端から後方へ濃度勾配を形成し、ナノス(Nanos)タンパク質は後端から前方へ濃度勾配を形成します。 これらのモルフォゲン濃度勾配が各領域の遺伝子発現を制御し、前後軸のパターンを決定します。 前の記事(B-8-1)では、このような濃度勾配がどのように数理的に記述できるかを学びました。
高校の進化分野では、遺伝子重複が進化の原動力の一つであることを学びます。 遺伝子が重複すると、一方のコピーは元の機能を維持しつつ、もう一方のコピーは突然変異を蓄積して新しい機能を獲得できます。 ヘモグロビン遺伝子ファミリーがその代表例として教科書に登場します。
また、高校では「動物の形態は多様である」という事実を学び、その多様性の背景には自然選択や遺伝的浮動があることも理解しています。 しかし、ここにはまだ答えられていない根本的な問いがあります。
次のセクションでは、これらの問いに正面から答える大学の理論的枠組み ── 進化発生生物学(Evo-Devo)の視点を導入します。
進化発生生物学(Evo-Devo、Evolutionary Developmental Biology)は、進化生物学と発生生物学を融合した学問分野です。 1980年代以降、分子生物学の技術革新によって異なる動物種の発生遺伝子を直接比較できるようになり、驚くべき発見がなされました。
ハエからヒトまで、動物の体をつくる基本的な遺伝子(ツールキット遺伝子)は驚くほど保存されています。前後軸を決めるHox遺伝子、眼をつくるPax6遺伝子、肢をつくるDll/Dlx遺伝子 ── これらは5億年以上前の共通祖先から受け継がれた「共通の道具箱」です。
形態の多様性は、これらの遺伝子がいつ・どこで・どれだけ発現するかを制御するシス制御要素(エンハンサー)の進化によって生まれます。タンパク質そのものを変えるのではなく、その使い方を変えることで、既存の部品から新しいデザインが生み出される ── これがEvo-Devoの中心的洞察です。
この洞察を理解するために、まずHox遺伝子クラスターとツールキット遺伝子の概念を導入し(セクション3)、次にシス制御要素の進化が形態変化をもたらすメカニズムを解説し(セクション4)、そしてこの論理が動物界全体に通じる「深い相同性」の概念にまとめ上げます(セクション5)。
ショウジョウバエの遺伝学において、エドワード・ルイス(Edward B. Lewis)は1978年、ハエの体節の同一性(どの体節がどの構造を形成するか)を決定するホメオティック遺伝子(homeotic gene)を発見しました。 これらの遺伝子に変異が入ると、体の一部が別の体の部位に変換されるという劇的な表現型が現れます。 たとえば、Antennapedia遺伝子の機能獲得変異では、本来触角が生えるべき場所に脚が生えます。 またUltrabithorax変異では、平均棍(へいきんこん)が翅に変わり、4枚翅のハエが生じます。
これらのホメオティック遺伝子は、共通のホメオドメイン(homeodomain)と呼ばれる60アミノ酸のDNA結合ドメインを持っています。 ホメオドメインは転写因子としてDNAに結合し、下流の遺伝子群の発現を制御します。 ホメオドメインを持つ遺伝子を総称してホメオボックス遺伝子(homeobox gene)と呼び、その中でも体軸に沿った体節の同一性を決定するものをHox遺伝子と呼びます。
Hox遺伝子の最も注目すべき特徴は、染色体上の並び順です。 ショウジョウバエでは、Hox遺伝子はゲノム上で一列に並んでおり(クラスターを形成しており)、この並び順が体の前後軸に沿った発現領域の順序と一致しています。 染色体の3'側の遺伝子は体の前方で発現し、5'側の遺伝子は後方で発現します。 この現象を共線性(colinearity)と呼びます。
空間的共線性:染色体上で3'側に位置するHox遺伝子ほど、体の前方で発現する。5'側に位置するものほど後方で発現する。
染色体上の並び順:3' ── [前方のHox] ── [中間のHox] ── [後方のHox] ── 5'
体の前後軸での発現域:前方 ←───────────────→ 後方
時間的共線性(脊椎動物):3'側のHox遺伝子ほど発生の早い時期に発現し始め、5'側のものほど遅く発現し始める。
共線性はほぼすべての左右相称動物(Bilateria)に見られる普遍的な性質です。遺伝子のゲノム上の物理的配置が発現パターンを規定するという点で、他の遺伝子ファミリーには見られない非常に珍しい特徴です。
ショウジョウバエのHox遺伝子は、labial(頭部最前方)からAbdominal-B(腹部最後方)まで、ゲノム上で2つのクラスター(ANT-CとBX-C)を形成しています。 脊椎動物では、全ゲノム重複の結果、4つのHoxクラスター(HoxA, HoxB, HoxC, HoxD)が存在し、合計39個のHox遺伝子を持っています。
| 動物群 | Hoxクラスター数 | Hox遺伝子数(概数) | 備考 |
|---|---|---|---|
| 刺胞動物(ヒドラなど) | 1(断片化) | 2-3 | 前方型・後方型のみ |
| ショウジョウバエ | 2(ANT-C, BX-C) | 8 | 祖先的には1クラスター |
| ナメクジウオ | 1 | 15 | 脊索動物の祖先型に近い |
| 哺乳類(ヒト・マウス) | 4(A, B, C, D) | 39 | 2回の全ゲノム重複 |
| 硬骨魚類(ゼブラフィッシュ) | 7 | 48 | 魚類特有の追加重複 |
1980年代から1990年代にかけて、Hox遺伝子だけでなく、発生を制御する多くの遺伝子が動物界全体で保存されていることが次々と明らかになりました。 ショーン・B・キャロル(Sean B. Carroll)は、これらの保存された発生制御遺伝子をツールキット遺伝子(toolkit gene)と名付けました。 「大工道具箱」のように、動物の体を組み立てるための共通の道具セットです。
| ツールキット遺伝子 | 機能 | ショウジョウバエ | 脊椎動物の相同遺伝子 |
|---|---|---|---|
| Hox | 体の前後軸パターン | Antennapedia など | HoxA-D クラスター |
| Pax6 / eyeless | 眼の形成開始 | eyeless | Pax6(小眼症の原因遺伝子) |
| Dll / Dlx | 付属肢(肢・触角)の形成 | Distal-less | Dlx遺伝子ファミリー |
| tinman / Nkx2.5 | 心臓の形成 | tinman | Nkx2.5 |
| hedgehog / Shh | シグナル伝達(パターン形成) | hedgehog | Sonic hedgehog(SHH) |
注目すべきは、これらのツールキット遺伝子が5億年以上前の共通祖先から保存されている点です。 ウォルター・ゲーリング(Walter Gehring)は、マウスのPax6遺伝子をショウジョウバエで強制発現させると、ショウジョウバエ型の複眼が異所的に形成されることを示しました(1995年)。 昆虫の複眼と哺乳類のカメラ眼はまったく異なる構造ですが、眼をつくる「スイッチ」として同じ遺伝子が5億年以上使い続けられているのです。
誤解:Pax6がハエでもヒトでも眼をつくるなら、昆虫の複眼と脊椎動物のカメラ眼は同じものの変形である
正確には:Pax6は「眼をつくれ」というマスタースイッチであり、その下流で働く遺伝子群(実際に眼の構造をつくる遺伝子)は種によって異なります。複眼とカメラ眼は構造的には独立に進化した(収斂進化)ものですが、発生の開始スイッチは共通の祖先から引き継がれています。ツールキット遺伝子は「何をつくるか」の指令を出す上位の制御因子であり、「どんな構造にするか」は下流の遺伝子ネットワークが決めるのです。
ここまでで、動物界に共通するツールキット遺伝子の存在を確認しました。 では、同じ遺伝子を持っているのに、なぜ動物の形態はこれほど多様なのでしょうか。 次のセクションでは、形態の多様性を生み出す主要メカニズム ── シス制御要素の進化 ── を見ていきます。
形態の進化には2つの経路が考えられます。 (1) タンパク質のアミノ酸配列を変える(コード領域の変化)、 (2) タンパク質はそのままに、その発現パターンを変える(制御領域の変化)。 Evo-Devoの研究は、形態進化において後者 ── シス制御要素(cis-regulatory element)の変化 ── が圧倒的に重要であることを明らかにしました。
なぜでしょうか。ツールキット遺伝子のタンパク質は多くの組織で多くの役割を果たす多面的(pleiotropic)な因子です。 たとえばPax6は眼だけでなく、脳や膵臓の発生にも関わっています。 もしPax6タンパク質そのものの機能を変えてしまうと、眼だけでなく脳や膵臓にも影響が及び、有害な結果をもたらす可能性が高くなります。
一方、シス制御要素はモジュール的(modular)に機能します。 一つの遺伝子は複数のエンハンサーを持ち、それぞれが異なる組織や時期での発現を独立に制御しています。 特定のエンハンサーだけを変えれば、特定の組織での発現パターンだけを変えることができ、他の機能に影響を与えません。
エンハンサーのモジュール性は、進化にとって決定的に重要です。一つのエンハンサーの変化は、その遺伝子のすべての機能ではなく、特定の組織・時期での発現だけを変えます。これにより、既存の機能を壊さずに新しい発現パターン(=新しい形態)を「試す」ことが可能になります。
これは建築に喩えると、設計図の一部だけを変更して特定の部屋のレイアウトを変えるようなものです。基本構造(タンパク質)はそのままに、使い方(いつ・どこで発現するか)を変えて多様なデザインを生み出すのです。
エンハンサーの進化が形態変化を生み出す実例として、ショウジョウバエの翅の色素パターンの研究が有名です。 キャロルの研究グループは、Drosophila biarmipesの翅先端に見られる黒い斑点が、色素合成酵素yellow遺伝子のエンハンサーの進化によって生まれたことを示しました(Gompel et al., 2005)。
yellow遺伝子のタンパク質そのものは近縁種でも保存されています。 しかし、D. biarmipesでは翅先端でのみyellowを発現させる新しいエンハンサーが進化しました。 このエンハンサーは、翅先端で発現する既存の転写因子(Dll/Distal-lessなど)の結合サイトを獲得することで、新たな発現ドメインを生み出したのです。
ショウジョウバエを含む双翅目(ハエ目)は、祖先的な4枚翅の昆虫から後翅が退化して平均棍(バランサー)に変化した2枚翅の昆虫です。 この形態変化は、Hox遺伝子Ultrabithorax(Ubx)のシス制御要素の進化と関連しています。
Ubxタンパク質そのものは多くの昆虫で保存されていますが、双翅目ではUbxが後翅の発生を抑制する標的遺伝子の制御を獲得しました。 具体的には、翅の成長に必要な遺伝子群のエンハンサーにUbxの結合サイトが追加され、後翅形成が抑制されるようになったのです。 つまり、Ubxタンパク質の機能変化ではなく、Ubxの標的となる下流遺伝子のエンハンサー変化が後翅の退化をもたらしました。
あるツールキット遺伝子Xが、組織A、B、Cで異なるエンハンサー($E_A$, $E_B$, $E_C$)によって発現しているとします。
コード領域の変異の場合:タンパク質Xの機能が変わると、組織A, B, Cすべてに影響が及びます。組織Aでの新機能が有利でも、B, Cでの既存機能が損なわれれば、全体として有害になります。
エンハンサーの変異の場合:$E_A$だけが変化すれば、組織Aでの発現パターンだけが変わり、組織B, Cでの機能は保たれます。このように、エンハンサーの変異は「副作用」が少なく、自然選択で有利な変化が定着しやすいのです。
これを多面発現の分離(partitioning of pleiotropy)と呼びます。エンハンサーのモジュール性が、遺伝子の多面的機能を「分割」して、一部だけを進化させることを可能にしています。
エンハンサーの進化をもう少し定量的に考えてみましょう。 ある転写因子TFが濃度 $[\mathrm{TF}]$ で存在し、エンハンサー上の結合サイトに結合するとき、その遺伝子の転写量 $R$ はヒルの式に似た形で近似できます。
$$R = R_{\max} \cdot \frac{[\mathrm{TF}]^n}{K_d^n + [\mathrm{TF}]^n}$$
各変数の意味は次のとおりです。
エンハンサーの進化とは、この式における $K_d$ や $n$ が変化することに相当します。新たな転写因子結合サイトの獲得は $n$ の増加を、結合サイトの配列変化は $K_d$ の変化をもたらし、遺伝子発現の閾値応答が変化します。これにより、同じ転写因子の濃度勾配でも、発現の開始位置が変わりうるのです。
この視点は、前の記事(B-8-1)で学んだモルフォゲン勾配のフレンチフラッグモデルとつながります。 モルフォゲン(=転写因子)の濃度勾配が一定でも、エンハンサーの $K_d$ が進化的に変化すれば、遺伝子が発現する位置が前方にシフトしたり後方にシフトしたりします。 これが「同じモルフォゲン勾配の下で、異なる発現パターンを生み出す」メカニズムなのです。
ここまでで、形態の多様性がエンハンサーの進化によって生まれるメカニズムを理解しました。 次のセクションでは、この論理を動物界全体に拡張し、「深い相同性」という概念を導入します。
伝統的な比較解剖学では、相同(homology)とは共通祖先に由来する構造の類似を意味します。 たとえば、ヒトの腕、クジラの胸鰭、コウモリの翼は相同な構造です(前肢の骨格構造が共通)。 一方、昆虫の翅と鳥の翼は機能は似ていますが共通祖先に由来せず、相似(analogy / convergent evolution)とされてきました。
しかし、Evo-Devoの研究は「相同」の概念をより深いレベルに拡張しました。 構造そのものは独立に進化した(相似)としても、その構造をつくるための遺伝子プログラムが共通祖先から受け継がれている場合があります。 ニール・シュービン(Neil Shubin)らは、これを深い相同性(deep homology)と名付けました(2009年)。
昆虫の複眼と脊椎動物のカメラ眼は構造的に全く異なりますが、どちらもPax6が眼形成のマスタースイッチとして機能します。昆虫の脚と脊椎動物の肢は構造的に独立に進化しましたが、どちらもDll/Dlx遺伝子が肢の遠位部(先端側)の形成に必要です。
これが深い相同性です。構造レベルでは相似(収斂進化)でも、その構造を生み出す遺伝子レベルでは相同(共通祖先由来)であるという、進化の深い階層構造を示しています。
深い相同性の最も劇的な例の一つが、脊椎動物と昆虫の背腹軸の反転です。 19世紀のフランスの博物学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールは、昆虫を裏返すと脊椎動物の体制に似ていると主張し、キュヴィエとの有名な論争に敗れました。 しかし、1990年代の分子生物学的研究は、ジョフロワの直感が正しかったことを明らかにしました。
脊椎動物の背腹パターンを決めるBMP(骨形成タンパク質)シグナルとその拮抗因子Chordin/Nogginは、ショウジョウバエのdecapentaplegic(Dpp)とshort gastrulation(Sog)に対応します。 驚くべきことに、脊椎動物ではBMPが腹側で高く発現するのに対し、昆虫ではDpp(BMPの相同分子)が背側で高く発現します。 つまり、同じシグナル系を使っていますが、背腹の方向が逆転しているのです。 これは共通祖先の段階で背腹軸が反転したことを示唆しており、ジョフロワの「昆虫をひっくり返すと脊椎動物」という主張を分子レベルで裏付けています。
Hox遺伝子の発現域は互いに重なり合っていますが、複数のHox遺伝子が同時に発現する体節では、より後方に対応するHox遺伝子が優先的に機能します。 この現象を後方優性(posterior prevalence)と呼びます。
後方優性のおかげで、各体節は「その位置で発現する最も後方のHox遺伝子」によって同一性が決まります。 これにより、共線性の原理と合わせて、前後軸に沿った各体節の性質が一意に規定されるのです。 この仕組みは節足動物から脊椎動物まで保存されており、左右相称動物のボディプランの根本的な共通性を示しています。
ショウジョウバエのUltrabithorax変異で生じる4枚翅のハエは、かつて4枚の翅を持っていた祖先的な昆虫の姿を彷彿とさせます。実際、化石記録によると古生代の昆虫には4枚翅のものが多く存在しました。ホメオティック変異は、通常は後方優性によって抑制されている発生プログラムを「解放」することで、祖先の形態を「復元」しているとも解釈できます。このように、Hox遺伝子の機能変化は進化の歴史を読み解く手がかりを与えてくれます。
深い相同性の概念は、動物の形態の多様性を「表面的な違い」と「根底にある共通性」の2つの層で理解することを可能にします。 次のセクションでは、Evo-Devoの枠組みを使って、ヘビの肋骨の多さやカメの甲羅の起源など、具体的な形態進化の事例を解析します。
ヘビは数百個の椎骨を持ち、そのほぼすべてに肋骨がついています。 一方、典型的な哺乳類(マウス)は約60個の椎骨を持ち、肋骨は胸椎領域(13対程度)に限定されています。 この劇的な違いはどのようにして進化したのでしょうか。
答えはHox遺伝子の発現域の変化にあります。 マウスでは、胸椎と腰椎の境界はHox10遺伝子群の発現開始位置によって決まります。 Hox10は腰椎領域で発現し、肋骨の形成を抑制します。 したがって、Hox10が発現する位置より前方の椎骨(胸椎)にだけ肋骨が形成されます。
ところがヘビでは、Hox10の発現開始が体のずっと後方にシフトしています。 その結果、ほぼすべての椎骨が「胸椎的」な性質を持ち、肋骨を形成します。 重要な点は、Hox10タンパク質そのものの機能は変わっていないということです。 変わったのは発現域、すなわちHox10遺伝子のエンハンサーの活性パターンです。
さらに、ヘビでは前肢の形成に必要なHox遺伝子の発現パターンも変化しており、前肢と後肢の両方が退化しています。 Hoxc6やHoxc8の発現域が拡大して均一化し、前肢を形成するのに必要な前後軸方向の遺伝子発現の「境界」が失われたためと考えられています。
誤解:ヘビは肋骨を多くつくるための特別な遺伝子(または遺伝子変異)を持っている
正確には:ヘビの肋骨の多さは、新しい遺伝子の獲得ではなく、既存のHox遺伝子の発現域(エンハンサーの活性パターン)の変化によるものです。Hox10の発現が後方にシフトしたことで「胸椎領域」が拡大し、結果として肋骨がほぼ全椎骨に形成されるようになりました。タンパク質そのものではなく、「いつ・どこで」発現するかの変化が形態進化を駆動する ── Evo-Devoの核心的原理がここにも見られます。
カメの甲羅(背甲)は脊椎動物の中でも極めて独特な構造であり、肋骨が拡大して皮膚と癒合したものです。 通常の脊椎動物では肋骨は腹側に湾曲しますが、カメでは肋骨が背側に広がり、板状になって互いに癒合し、さらにその上を骨質の皮骨が覆います。
この構造の発生メカニズムは、倉谷滋(Kuratani Shigeru)らの研究によって明らかにされてきました。 カメの胚では、肋骨が成長する際に甲皮稜(carapacial ridge, CR)という特殊な構造が体の側面に形成されます。 この甲皮稜がシグナルセンター(信号中心)として働き、肋骨の成長を背側に誘導します。
甲皮稜では、Wntシグナルの一種やFGFシグナルが発現し、これらのモルフォゲンが肋骨の成長方向を通常の腹側ではなく背側に変えます。 興味深いことに、甲皮稜に発現するシグナル分子は他の脊椎動物の肢芽の先端肥厚外胚葉(AER)で発現するものと共通しています。 つまり、カメは肢の形成に使われるシグナル経路を「再利用」して、甲羅という新しい構造を進化させた可能性があるのです。
2008年に中国で発見されたオドントケリス(Odontochelys semitestacea)は、腹甲は持つが背甲が不完全な「半分甲羅のカメ」の化石です。さらに2015年に記載されたパッポケリス(Pappochelys rosinae)は、肋骨が太く幅広いものの、まだ癒合していない段階を示しています。これらの化石は、甲羅が一度に出現したのではなく、肋骨の幅広化 → 癒合 → 皮骨の形成という段階的な進化を経たことを示しています。Evo-Devoの視点から見ると、各段階でのHox遺伝子やシグナル分子の発現パターンの微小な変化が、このような段階的な形態進化を可能にしたと考えられます。
ここまでの内容を使って、高校生物の知識を大学の視点から再解釈してみましょう。
高校では「遺伝子重複によって新しい遺伝子が生まれ、新しい機能が進化する」と学びます。 これは確かに正しいのですが、遺伝子重複の進化的意義をEvo-Devoの観点から見直すと、より豊かな理解が得られます。 脊椎動物のHoxクラスターが4セットに重複したことは、Hox遺伝子の「冗長性」を生み出しました。 一部のHox遺伝子が元の機能を維持している間に、重複したコピーは新しいエンハンサーを獲得して新たな発現パターンを進化させることができたのです。 たとえばHoxDクラスターの遺伝子群は、四肢動物では指の形成に重要な役割を果たしますが、これは全ゲノム重複後に新たに獲得された機能です。
このように、遺伝子重複は「新しいタンパク質を生む」だけでなく、「同じタンパク質の新しい使い方を試す自由度を生む」という意味で、Evo-Devoの進化に本質的な役割を果たしています。
Q1. Hox遺伝子の「共線性」とは何ですか。空間的共線性について、ゲノム上の配置と体の前後軸との対応を説明してください。
Q2. 形態の進化においてタンパク質のコード領域の変化よりシス制御要素(エンハンサー)の変化が重要である理由を、多面発現(pleiotropy)の観点から説明してください。
Q3. 深い相同性(deep homology)の概念を、具体的な例(眼の形成など)を用いて説明してください。従来の「相同」「相似」との違いにも言及してください。
Q4. ヘビの肋骨がほぼ全椎骨に形成される理由を、Hox遺伝子の発現域変化の観点から説明してください。
以下の表は、4種の動物におけるHox遺伝子クラスターの数を示したものです。空欄(ア)〜(エ)に適する数値または語句を答えてください。
| 動物 | Hoxクラスター数 | Hox遺伝子の総数(概数) |
|---|---|---|
| ショウジョウバエ | (ア) | 8 |
| ナメクジウオ | 1 | (イ) |
| マウス | (ウ) | 39 |
| ゼブラフィッシュ | 7 | (エ) |
また、マウスのHoxクラスター数がナメクジウオより多い進化的理由を簡潔に述べてください。
(ア)2 (イ)15 (ウ)4 (エ)48
マウスのHoxクラスター数がナメクジウオより多い理由:脊椎動物の進化の過程で2回の全ゲノム重複(whole genome duplication)が起こり、もともと1つだったHoxクラスターが4つに増加したためです。
次の(a)〜(d)のツールキット遺伝子について、ショウジョウバエでの名称と脊椎動物での相同遺伝子名の組み合わせとして正しいものをそれぞれ選んでください。
(a) 眼の形成を開始するマスタースイッチ遺伝子
(b) 体の前後軸パターンを決定する遺伝子群
(c) 付属肢の遠位部の形成に必要な遺伝子
(d) 心臓の形成に必要な転写因子遺伝子
(a) ショウジョウバエ:eyeless、脊椎動物:Pax6
(b) ショウジョウバエ:Antennapediaなど(Hox遺伝子群)、脊椎動物:HoxA-Dクラスター
(c) ショウジョウバエ:Distal-less(Dll)、脊椎動物:Dlx遺伝子ファミリー
(d) ショウジョウバエ:tinman、脊椎動物:Nkx2.5
ウォルター・ゲーリングの実験では、マウスのPax6遺伝子をショウジョウバエの肢の原基で強制発現させると、脚にマウスの眼ではなくショウジョウバエ型の複眼が形成されました。 この実験結果から、Pax6のようなツールキット遺伝子の機能的性質について、どのような結論が導かれますか。 以下の2点に言及して論じてください。
(a) Pax6タンパク質の種間での保存性について
(b) Pax6の下流で働く遺伝子ネットワークの種特異性について
(a) マウスのPax6がショウジョウバエの細胞内で機能し、眼の形成を誘導できたことは、Pax6タンパク質の機能がマウスとショウジョウバエの間で高度に保存されていることを示しています。5億年以上前に分岐した2つの系統で、Pax6は「眼をつくれ」というマスタースイッチとしての機能を維持しています。
(b) 形成されたのがマウスのカメラ眼ではなくショウジョウバエ型の複眼であったことは、Pax6の下流で実際に眼の構造をつくる遺伝子ネットワークが種特異的であることを示しています。Pax6は「眼をつくれ」という指令を出す上位の制御因子ですが、その指令を受けてどのような構造の眼をつくるかは、各種が持つ下流の遺伝子ネットワークによって決まります。このことから、ツールキット遺伝子は発生の「スイッチ」として機能し、具体的な構造の設計は下流のネットワークに委ねられていると結論できます。
ある仮想的なツールキット遺伝子Xは、組織A(眼)、組織B(脳)、組織C(膵臓)で異なるエンハンサー($E_A$, $E_B$, $E_C$)によって発現しています。 この遺伝子に以下の2種類の変異が入った場合、それぞれどのような影響が予測されますか。 Evo-Devoの原理に基づいて論じてください。
(a) Xのコード領域にアミノ酸置換が生じ、タンパク質Xの機能が変化した場合
(b) エンハンサー $E_A$ に変異が入り、$E_A$ の活性パターンが変化した場合
(a) コード領域の変異によりタンパク質Xの機能が変化した場合、その影響は組織A(眼)、B(脳)、C(膵臓)のすべてに及びます。タンパク質Xはどの組織でも同じものが使われているため、機能変化が多面的に影響します。眼での変化が有利であっても、脳や膵臓での既存の機能が損なわれる可能性が高く、全体としては有害になる(自然選択で除去される)確率が高くなります。
(b) エンハンサー $E_A$ の変異の場合、影響は組織A(眼)に限定されます。$E_B$ と $E_C$ は変化しないため、組織B(脳)と組織C(膵臓)でのXの発現と機能は保たれます。もし眼での新しい発現パターンが有利であれば、脳や膵臓に副作用を及ぼすことなく自然選択で定着できます。これが「多面発現の分離」であり、エンハンサー変異が形態進化の主要経路となる理由です。
転写因子TFの濃度勾配のもとで、あるツールキット遺伝子の発現量がヒル型の応答関数に従うとします。
$$R = R_{\max} \cdot \frac{[\mathrm{TF}]^n}{K_d^n + [\mathrm{TF}]^n}$$
種Aではエンハンサーの解離定数が $K_d = 50$(任意単位)、ヒル係数 $n = 2$ であり、 種Bではエンハンサーの進化により $K_d = 30$、$n = 2$ に変化しました。 転写因子の濃度勾配は両種で同一で、体の前端($x = 0$)から後端に向かって $[\mathrm{TF}](x) = 100 \cdot e^{-x/\lambda}$($\lambda = 100$)で分布しています。
遺伝子の発現が「オン」になる閾値を $R = 0.5 R_{\max}$ と定義するとき、種A・種Bそれぞれにおいて発現が「オン」になる領域の境界位置 $x^*$ を求め、エンハンサーの $K_d$ の変化が発現域にどのような影響を与えるか考察してください。
$R = 0.5 R_{\max}$ となるのは $[\mathrm{TF}]^n = K_d^n$、すなわち $[\mathrm{TF}] = K_d$ のときです。
$[\mathrm{TF}](x^*) = K_d$ より $100 \cdot e^{-x^*/\lambda} = K_d$ なので、
$$x^* = -\lambda \ln\left(\frac{K_d}{100}\right) = \lambda \ln\left(\frac{100}{K_d}\right)$$
種A($K_d = 50$):
$$x^*_A = 100 \ln\left(\frac{100}{50}\right) = 100 \ln 2 \approx 69.3$$
種B($K_d = 30$):
$$x^*_B = 100 \ln\left(\frac{100}{30}\right) = 100 \ln\left(\frac{10}{3}\right) \approx 100 \times 1.204 \approx 120.4$$
したがって、種Bでは発現域の境界が $x \approx 69$ から $x \approx 120$ へと後方に約51単位シフトしています。
$K_d$ が50から30に減少した(エンハンサーの転写因子への親和性が増した)ことで、より低い濃度の転写因子でも遺伝子を活性化できるようになりました。転写因子の濃度勾配は前方ほど高く後方ほど低いため、「低い濃度でもオンになる」ということは発現域が後方へ拡大することを意味します。
これはEvo-Devoの重要な原理を定量的に示しています。モルフォゲン勾配(転写因子の濃度分布)自体は変わらなくても、エンハンサーの性質($K_d$)が進化するだけで、遺伝子の発現域が大きく変化しうるのです。ヘビのHox遺伝子の発現域シフトも、このようなエンハンサーの進化で説明できると考えられています。