高校生物では、解糖系は「グルコースがピルビン酸になり、ATPが2分子できる経路」と習います。
しかし、なぜグルコースを一気にピルビン酸に変換せず、わざわざ10段階もの反応を経るのでしょうか。
しかも最初にATPを2分子も消費する ── 直感に反する「投資」はなぜ必要なのでしょうか。
前の記事(B-4-1)で導入した自由エネルギー変化 $\Delta G$ を各反応に当てはめると、解糖系の「設計の合理性」が見えてきます。
10段階の中には $\Delta G$ が大きく負の不可逆ステップと、$\Delta G \approx 0$ の平衡ステップがあり、
不可逆ステップが代謝フラックスの「弁」として機能しています。
この記事では、解糖系の全体像を $\Delta G$ の地図として読み解き、代謝経路が小刻みに設計されている熱力学的な必然性を理解します。
高校生物では、細胞呼吸の最初のステップとして解糖系を学びます。要点を整理しましょう。
解糖系は細胞質基質で起こる反応で、グルコース($\mathrm{C_6H_{12}O_6}$)1分子がピルビン酸($\mathrm{C_3H_4O_3}$)2分子に分解されます。 この過程で ATP が正味2分子生成され、$\mathrm{NAD^+}$ が還元されて $\mathrm{NADH}$ が2分子できます。
高校の教科書では、解糖系はおおよそ次のようにまとめられています。
この概要は正しいのですが、いくつかの根本的な問いに答えられません。 なぜ「10段階」もの反応が必要なのか? なぜ最初にATPを2つ消費するのか? どの段階が経路全体の速度を決めているのか? これらの問いに答えるには、B-4-1で学んだ自由エネルギー変化 $\Delta G$ を武器として使います。次のセクションで、大学の視点から解糖系を見直してみましょう。
グルコースの完全酸化で放出される自由エネルギーは約 $-2870 \, \mathrm{kJ/mol}$ にもなります。もしこれを一段階で放出すれば、大部分が熱として散逸し、ATPの合成に使えません。代謝経路が多段階に分かれているのは、エネルギーを少しずつ取り出し、ATP合成に必要な単位(約 $-30.5 \, \mathrm{kJ/mol}$)に分割するためです。
さらに、多段階であることで各ステップの $\Delta G$ を個別に制御でき、代謝フラックス(経路全体を流れる物質の速度)を精密に調節できます。これが代謝経路の「設計論理」です。
B-4-1で学んだように、$\Delta G < 0$ の反応は自発的に進行し、$\Delta G$ の絶対値が大きいほど反応は強く一方向に駆動されます。 一方、$\Delta G \approx 0$ の反応は平衡に近く、基質と生成物の濃度比によって正方向にも逆方向にも容易に傾きます。 解糖系の10段階は、この2種類のステップの巧みな組み合わせでできています。次のセクションで、各段階の $\Delta G$ を具体的に見ていきましょう。
B-4-1で導入した概念を思い出しましょう。標準自由エネルギー変化 $\Delta G^\circ{'}$ は、すべての反応物と生成物が標準状態(1 M、pH 7.0、25 ℃)にあるときの値です。一方、細胞内での実際の自由エネルギー変化 $\Delta G$ は、実際の濃度条件を反映した値で、次の式で計算されます。
$$\Delta G = \Delta G^\circ{'} + RT \ln Q$$
ここで $Q$ は反応商(生成物濃度の積 / 反応物濃度の積)、$R$ は気体定数、$T$ は絶対温度です。 代謝経路の方向性を議論するうえで重要なのは $\Delta G^\circ{'}$ ではなく、細胞内の実際の $\Delta G$ です。以下の表では両方の値を示します。
以下は赤血球(ヒト)における実測値に基づく代表的な $\Delta G$ です。細胞の種類や代謝状態によって多少異なりますが、不可逆 / 平衡の区別は普遍的です。
| 段階 | 反応 | 酵素 | $\Delta G^\circ{'}$ (kJ/mol) | $\Delta G$ (kJ/mol) |
|---|---|---|---|---|
| 1 | グルコース → グルコース 6-リン酸 | ヘキソキナーゼ | $-16.7$ | $-33.4$ |
| 2 | グルコース 6-リン酸 → フルクトース 6-リン酸 | ホスホグルコースイソメラーゼ | $+1.7$ | $-2.5$ |
| 3 | フルクトース 6-リン酸 → フルクトース 1,6-ビスリン酸 | ホスホフルクトキナーゼ-1(PFK-1) | $-14.2$ | $-22.2$ |
| 4 | フルクトース 1,6-ビスリン酸 → DHAP + G3P | アルドラーゼ | $+23.8$ | $-1.3$ |
| 5 | DHAP → G3P | トリオースリン酸イソメラーゼ | $+7.5$ | $+2.5$ |
| 6 | G3P → 1,3-ビスホスホグリセリン酸 | グリセルアルデヒド 3-リン酸デヒドロゲナーゼ | $+6.3$ | $-1.3$ |
| 7 | 1,3-ビスホスホグリセリン酸 → 3-ホスホグリセリン酸 | ホスホグリセリン酸キナーゼ | $-18.8$ | $+1.3$ |
| 8 | 3-ホスホグリセリン酸 → 2-ホスホグリセリン酸 | ホスホグリセリン酸ムターゼ | $+4.4$ | $+0.8$ |
| 9 | 2-ホスホグリセリン酸 → ホスホエノールピルビン酸 | エノラーゼ | $+7.5$ | $+1.7$ |
| 10 | ホスホエノールピルビン酸 → ピルビン酸 | ピルビン酸キナーゼ | $-31.4$ | $-16.7$ |
表を見ると、$\Delta G$ の大きさによって10段階は2つのグループに明確に分かれます。
不可逆ステップ($\Delta G \ll 0$):段階1(ヘキソキナーゼ、$-33.4 \, \mathrm{kJ/mol}$)、段階3(PFK-1、$-22.2 \, \mathrm{kJ/mol}$)、段階10(ピルビン酸キナーゼ、$-16.7 \, \mathrm{kJ/mol}$)の3つです。これらの反応は細胞内で事実上一方向にしか進みません。
平衡ステップ($\Delta G \approx 0$):残りの7段階はすべて $|\Delta G|$ が数 kJ/mol 以下で、平衡に近い状態にあります。これらの反応は基質・生成物の濃度変化によって容易に方向が変わります。
誤:段階4(アルドラーゼ)は $\Delta G^\circ{'} = +23.8 \, \mathrm{kJ/mol}$ だから、この反応は進行しない
正:細胞内では生成物(DHAP と G3P)が後続反応で速やかに消費されるため $Q$ が非常に小さくなり、$\Delta G = -1.3 \, \mathrm{kJ/mol}$ と負になる。$\Delta G^\circ{'}$ が正でも $\Delta G$ が負であれば反応は進行する。代謝経路の方向性を決めるのは $\Delta G$ であって $\Delta G^\circ{'}$ ではない。
注目すべきは、平衡ステップが「パイプ」、不可逆ステップが「弁」として機能していることです。平衡ステップでは物質が自由に流れ、不可逆ステップで流れの方向と速度が決まります。この構造が、解糖系の方向性と制御可能性を同時に実現しています。次のセクションでは、なぜ最初にATPを消費する「投資フェーズ」が必要なのかを、$\Delta G$ の視点から考えます。
解糖系の前半(段階1〜5)では、グルコース1分子あたりATPを2分子消費します。これを投資フェーズ(preparatory phase)と呼びます。 後半(段階6〜10)では、ATPが4分子生成されます(C3断片が2つあるため、段階7と10でそれぞれ2分子ずつ)。これが回収フェーズ(payoff phase)です。
一見すると「最初に2分子消費して最後に4分子得る」のは非効率に思えます。しかし、投資フェーズでのATP消費は、2つの重要な役割を担っています。
段階1でグルコースがリン酸化されてグルコース 6-リン酸になるとき、ATPの加水分解エネルギー($\Delta G^\circ{'} \approx -30.5 \, \mathrm{kJ/mol}$)が反応に「投入」されます。 B-4-1で学んだように、熱力学的に不利な反応(正の $\Delta G^\circ{'}$)でも、ATPの加水分解と共役させることで全体の $\Delta G$ を大きく負にできます。
グルコースのリン酸化反応(段階1)を分解して考えてみましょう。
グルコース + $\mathrm{P_i}$ → グルコース 6-リン酸 + $\mathrm{H_2O}$:$\Delta G^\circ{'} = +13.8 \, \mathrm{kJ/mol}$
$\mathrm{ATP}$ + $\mathrm{H_2O}$ → $\mathrm{ADP}$ + $\mathrm{P_i}$:$\Delta G^\circ{'} = -30.5 \, \mathrm{kJ/mol}$
これらを合計すると、
グルコース + $\mathrm{ATP}$ → グルコース 6-リン酸 + $\mathrm{ADP}$:$\Delta G^\circ{'} = -16.7 \, \mathrm{kJ/mol}$
ATPの加水分解エネルギーを共役させることで、単独では進まないリン酸化が強く駆動されています。これがB-4-1で学んだ「共役反応」の実例です。
段階3で再度ATPを消費してフルクトース 1,6-ビスリン酸を作ることには、もう一つの意味があります。 フルクトース 1,6-ビスリン酸は対称的な分子で、段階4のアルドラーゼによって2つのC3断片(DHAP と G3P)にきれいに分割されます。 両端にリン酸基がついているからこそ、分割後の2つの断片がどちらも「高エネルギー」な状態を保ち、後半の回収フェーズに進めるのです。
段階4(アルドラーゼ)の $\Delta G^\circ{'}$ は $+23.8 \, \mathrm{kJ/mol}$ と大きく正ですが、 細胞内では後続の反応が生成物を速やかに消費するため、$\Delta G = -1.3 \, \mathrm{kJ/mol}$ となっています。 これは平衡ステップが「後ろから引っ張られて」正方向に進む典型的な例であり、多段階経路ならではのメカニズムです。
投資フェーズ(段階1, 3):$-2 \, \mathrm{ATP}$
回収フェーズ(段階7, 10):$+4 \, \mathrm{ATP}$(各段階で2分子ずつ、C3断片が2つ分)
$$\text{ATP} = -2 + 4 = +2$$
正味の $\Delta G$ について:解糖系全体の $\Delta G^\circ{'}$ は約 $-85 \, \mathrm{kJ/mol}$ です。グルコースの持つ自由エネルギーの一部がATPに捕獲され、残りは熱として放出されるか、$\mathrm{NADH}$ に蓄えられます。
ここで本記事の核心的な問いに戻りましょう。なぜグルコースを一段階でピルビン酸にしないのか?
仮に一段階で全エネルギーを放出すると、$\Delta G \approx -85 \, \mathrm{kJ/mol}$ のエネルギーが一度に解放されます。 しかし、ATP 1分子の合成に必要なエネルギーは約 $30.5 \, \mathrm{kJ/mol}$ です。一段階の反応から最大でも2〜3分子のATPしか合成できず、残りのエネルギーは熱として失われます。
多段階に分ければ、各ステップで放出されるエネルギーをATP合成に適した単位で取り出せます。 さらに、一部のステップでは $\mathrm{NADH}$ という形でエネルギーを蓄え、後の電子伝達系でさらに多くのATPを生み出すことができます。 小刻みな反応は、エネルギー変換の効率を最大化する設計なのです。
投資フェーズの設計思想がわかったところで、次のセクションでは、3つの不可逆ステップが代謝の「制御弁」としてどのように機能するかを見ていきます。
代謝経路の速度は、最も遅い段階(律速段階)によって決まります。 しかし、熱力学的に重要なのは単に「遅い」ことではなく、不可逆であることです。
$\Delta G \approx 0$ の平衡ステップでは、基質が少し増えれば反応は勝手に正方向に進みます。これらのステップを制御しても、すぐに平衡に戻ってしまいます。 一方、$\Delta G \ll 0$ の不可逆ステップは「一方通行のゲート」であり、この酵素の活性を変えることで、経路全体を流れる物質の速度(代謝フラックス)を精密に調節できます。
解糖系の3つの不可逆ステップは、それぞれ異なるシグナルに応答するアロステリック酵素によって触媒されています。
段階1:ヘキソキナーゼ($\Delta G = -33.4 \, \mathrm{kJ/mol}$)── 生成物であるグルコース 6-リン酸による生成物阻害(フィードバック阻害)を受けます。グルコース 6-リン酸が蓄積するとヘキソキナーゼが阻害され、グルコースの取り込みが抑えられます。
段階3:ホスホフルクトキナーゼ-1(PFK-1)($\Delta G = -22.2 \, \mathrm{kJ/mol}$)── 解糖系の最重要の律速酵素です。ATPが十分にあると(ATPが高濃度だと)阻害され、AMPやADPが多いと活性化されます。また、クエン酸(クエン酸回路の中間体)による阻害も受けます。つまりPFK-1は「細胞のエネルギー状態」を感知するセンサーとして機能しています。
段階10:ピルビン酸キナーゼ($\Delta G = -16.7 \, \mathrm{kJ/mol}$)── ATPとアラニン(ピルビン酸から合成されるアミノ酸)によって阻害され、フルクトース 1,6-ビスリン酸(段階3の生成物)によって活性化されます。この活性化はフィードフォワード制御と呼ばれ、上流の反応が活発であることを下流に伝えるシグナルです。
解糖系の不可逆ステップ($\Delta G \ll 0$)は、次の3つの機能を同時に果たしています。
1. 方向性の確保:大きく負の $\Delta G$ により、経路が逆行しないことを保証する。
2. 速度の制御:アロステリック調節の標的となり、代謝フラックスを調節する。
3. 糖新生との分離:解糖系と逆方向の経路(糖新生)では、これら3段階だけが別の酵素で迂回される。同じ酵素を共有する平衡ステップは、方向だけを変えて使い回される。
3つの制御点のうち、PFK-1が最も重要とされるのはなぜでしょうか。 段階1(ヘキソキナーゼ)はグルコースの入り口ですが、グルコース 6-リン酸は解糖系以外にも利用されます(ペントースリン酸経路、グリコーゲン合成など)。 したがって、段階1を制御しても解糖系だけを選択的に制御することはできません。
一方、PFK-1が触媒する段階3は「解糖系にコミットする」ステップです。 フルクトース 1,6-ビスリン酸は実質的に解糖系でしか使われないため、PFK-1の活性が解糖系のフラックスをほぼ決定します。 これは経路設計の合理的な帰結です ── 「分岐点の下流にある最初の不可逆ステップ」こそが、その経路に固有の律速段階になるのです。
PFK-1の最も強力なアロステリック活性化因子は、フルクトース 2,6-ビスリン酸($\mathrm{F\text{-}2{,}6\text{-}BP}$)です。この分子はフルクトース 1,6-ビスリン酸とは別物で、ホスホフルクトキナーゼ-2(PFK-2)という別の酵素によって合成されます。PFK-2はインスリンやグルカゴンなどのホルモンシグナルによって制御されており、全身のエネルギー状態に応じて解糖系のフラックスを調節する「ホルモン-代謝連結スイッチ」として機能しています。
ここまでで、解糖系の10段階が「平衡ステップ(パイプ)」と「不可逆ステップ(制御弁)」の組み合わせとして設計されていることが明らかになりました。次のセクションでは、この設計原理が現代医学にどのようにつながるかを見てみましょう。
1920年代、ドイツの生化学者オットー・ワールブルク(Otto Warburg)は驚くべき現象を発見しました。 がん細胞は、酸素が十分にある条件でも、ミトコンドリアでの酸化的リン酸化よりも解糖系を活発に行い、ピルビン酸を乳酸に変換するのです。 この現象はワールブルク効果(好気的解糖)と呼ばれています。
酸化的リン酸化では1分子のグルコースから約30〜32分子のATPが得られるのに対し、解糖系だけでは正味2分子のATPしか得られません。 なぜがん細胞はこの「非効率な」経路を選ぶのでしょうか?
本記事で学んだ代謝経路の設計論理を使うと、この謎の一端が見えてきます。
解糖系の中間代謝物は、ATP以外にも重要な生合成原料を供給します。 グルコース 6-リン酸はペントースリン酸経路に入り、核酸合成に必要なリボースや、脂肪酸合成に必要な $\mathrm{NADPH}$ を供給します。 3-ホスホグリセリン酸はセリンやグリシンの合成原料です。 ピルビン酸はアラニンやアセチルCoA(脂肪酸合成の出発物質)に変換されます。
急速に増殖するがん細胞にとっては、ATPの効率的な生産よりも、増殖に必要な「材料」(核酸・アミノ酸・脂質)の確保のほうが重要です。 解糖系を高速で回すことで、中間代謝物を大量に供給し、多様な生合成経路に分配できるのです。
ワールブルク効果は医療にも応用されています。 PET検査(陽電子放出断層撮影)では、放射性標識したグルコース類似体($^{18}\mathrm{F}$-FDG)を投与します。 がん細胞は解糖系が亢進しているため、FDGを大量に取り込みます。 FDGはヘキソキナーゼ(段階1)によってリン酸化されますが、解糖系の段階2以降に進めないため、細胞内に蓄積します。 この蓄積をPETカメラで検出することで、がんの位置と活性を画像化できるのです。
近年の研究では、がん細胞の代謝変化は単なる「副作用」ではなく、がん遺伝子(Ras, Myc など)やがん抑制遺伝子(p53 など)によって積極的に制御されていることがわかっています。たとえば、がん遺伝子 Myc は解糖系酵素の発現を亢進させ、p53 の不活性化は酸化的リン酸化を抑制します。代謝の「設計変更」(代謝リプログラミング)自体が、がんの特徴の一つとして認識されるようになりました。
解糖系の設計論理は、基礎生化学の理解にとどまらず、がん生物学や臨床診断にも直結しています。次のセクションでは、本記事の内容が他のトピックとどのようにつながるかを整理します。
代謝経路の設計論理は、熱力学と酵素学の交差点に位置します。以下のトピックと密接に関連しています。
それでは最後に、本記事の要点をまとめましょう。
Q1. 解糖系10段階のうち、不可逆ステップ($\Delta G \ll 0$)はどの段階ですか。それぞれの酵素名とともに答えてください。
Q2. アルドラーゼ反応(段階4)は $\Delta G^\circ{'} = +23.8 \, \mathrm{kJ/mol}$ であるにもかかわらず、細胞内では正方向に進行します。その理由を $\Delta G$ と $\Delta G^\circ{'}$ の違いを用いて説明してください。
Q3. PFK-1が解糖系の「最重要の律速酵素」とされるのはなぜですか。ヘキソキナーゼ(段階1)ではなくPFK-1(段階3)が最重要である理由を説明してください。
Q4. 代謝経路が多段階に分かれていることのエネルギー的な利点を簡潔に述べてください。
ある反応の $\Delta G^\circ{'} = +6.3 \, \mathrm{kJ/mol}$(25 ℃)である。細胞内で反応商 $Q = 1.0 \times 10^{-4}$ のとき、実際の $\Delta G$ を求めよ。ただし $R = 8.314 \, \mathrm{J/(mol \cdot K)}$、$T = 298 \, \mathrm{K}$ とする。この反応は自発的に進行するか。
$$\Delta G = \Delta G^\circ{'} + RT \ln Q = 6.3 + 8.314 \times 10^{-3} \times 298 \times \ln(1.0 \times 10^{-4})$$
$$= 6.3 + 2.478 \times (-9.21) = 6.3 - 22.8 = -16.5 \, \mathrm{kJ/mol}$$
$\Delta G < 0$ であるため、この反応は自発的に進行する。
$\Delta G^\circ{'}$ が正(標準状態では逆方向が自発的)であっても、生成物が速やかに消費されて $Q$ が極めて小さくなれば、$RT \ln Q$ の寄与が大きな負の値となり、$\Delta G$ が負に転じます。これは解糖系の段階4(アルドラーゼ)と同じメカニズムです。
解糖系の「投資フェーズ」と「回収フェーズ」について、以下の問いに答えよ。
(a) 投資フェーズでATPを消費する段階の番号と酵素名を答えよ。
(b) 回収フェーズでATPを生成する段階の番号と酵素名を答えよ。
(c) グルコース1分子あたりの正味のATP収量を述べよ。
(a) 段階1(ヘキソキナーゼ)と段階3(ホスホフルクトキナーゼ-1)で各1分子のATPを消費し、合計2分子。
(b) 段階7(ホスホグリセリン酸キナーゼ)と段階10(ピルビン酸キナーゼ)で各1分子のATPを生成する。ただしグルコース1分子からC3断片が2つ生じるため、実際には各段階で2分子ずつ、合計4分子のATPが生成される。
(c) 正味のATP収量は $4 - 2 = 2$ 分子。
投資フェーズではATPの加水分解エネルギーを使ってグルコースをリン酸化し、後続反応を熱力学的に駆動可能な状態に「活性化」しています。回収フェーズでの基質レベルのリン酸化(高エネルギーリン酸基をADPに直接転移する反応)によりATPが生成されます。
糖新生(グルコース新生)は、ピルビン酸からグルコースを合成する経路であり、解糖系のほぼ逆反応である。しかし、解糖系の10段階のうち3段階は糖新生で「迂回」される(別の酵素で別の反応を使う)。
(a) 糖新生で迂回される3段階はどれか。$\Delta G$ の観点から、なぜこれらの段階は単純に逆転できないのか説明せよ。
(b) 解糖系の残りの7段階が糖新生でもそのまま使える理由を、$\Delta G$ の観点から説明せよ。
(a) 迂回される3段階は、段階1(ヘキソキナーゼ)、段階3(PFK-1)、段階10(ピルビン酸キナーゼ)である。これらは $\Delta G \ll 0$(それぞれ $-33.4$, $-22.2$, $-16.7 \, \mathrm{kJ/mol}$)の不可逆ステップであり、逆方向の $\Delta G$ は大きく正になる。したがって、逆方向は熱力学的に禁止されており、別の反応(異なる酵素とエネルギー源)を使って迂回する必要がある。
(b) 残りの7段階は $\Delta G \approx 0$ の平衡ステップであり、反応物と生成物の濃度比(反応商 $Q$)を変えるだけで容易に逆方向に進行する。したがって、同じ酵素が解糖系と糖新生の両方で使い回せる。
「不可逆ステップは迂回、平衡ステップは共有」という原則は、解糖系と糖新生の設計を $\Delta G$ だけで予測可能にします。この原則は他の代謝経路(クエン酸回路と関連するアナプレロティック反応など)にも一般化できます。
細胞内のATP濃度が上昇し、AMP濃度が低下した状況を考える。この状況がPFK-1の活性に与える影響と、その結果として解糖系全体の代謝フラックスがどう変化するかを、$\Delta G$ の概念を用いて説明せよ。
ATP濃度の上昇とAMP濃度の低下は、PFK-1をアロステリック的に阻害する。PFK-1の活性が低下すると、段階3の反応速度が低下し、フルクトース 6-リン酸が蓄積する。段階3は不可逆ステップ($\Delta G = -22.2 \, \mathrm{kJ/mol}$)であるため、この「弁」を絞ることで経路全体のフラックスが低下する。
一方、上流の段階2は平衡ステップ($\Delta G \approx 0$)なので、フルクトース 6-リン酸の蓄積により逆方向に傾き、グルコース 6-リン酸が蓄積する。これがヘキソキナーゼの生成物阻害を引き起こし、グルコースの取り込み自体も抑制される。
このように、PFK-1という一つの「弁」の調節が、上流への波及効果を通じて解糖系全体のフラックスを制御する。
不可逆ステップ(PFK-1)の阻害が平衡ステップを通じて上流に波及するメカニズムは、「不可逆ステップが弁、平衡ステップがパイプ」という比喩を具体的に示しています。エネルギーが十分にあるとき解糖系を抑制する ── これは合理的なフィードバック制御です。
がん細胞はワールブルク効果(好気的解糖)を示し、酸素存在下でもピルビン酸の多くを乳酸に変換する。
(a) 酸化的リン酸化と比較したとき、解糖系だけに依存するとATP生産効率は大幅に低下する。にもかかわらず、急速に増殖するがん細胞にとってこの戦略が有利である理由を、解糖系の中間代謝物の役割に着目して説明せよ。
(b) PET検査で用いる $^{18}\mathrm{F}$-FDG は、ヘキソキナーゼ(段階1)によってリン酸化されるが、段階2以降には進めない。このことがPET検査によるがんの検出を可能にする理由を、解糖系の反応の特徴を踏まえて説明せよ。
(c) 仮にPFK-1を標的とする阻害剤でがん細胞の解糖系を阻害できたとすると、がん細胞にどのような影響が予想されるか。ATPの枯渇以外の効果にも言及せよ。
(a) 解糖系の中間代謝物は多様な生合成経路に原料を供給する。グルコース 6-リン酸はペントースリン酸経路に入りリボース(核酸合成用)と $\mathrm{NADPH}$(脂肪酸合成用)を供給する。3-ホスホグリセリン酸はセリンやグリシンの合成原料となる。ピルビン酸はアセチルCoA(脂肪酸合成の出発物質)に変換される。急速に増殖するがん細胞は、ATP以上にこれらの生合成原料を大量に必要としている。解糖系を高速で回すことで、中間代謝物を大量に供給し、増殖に必要な核酸・アミノ酸・脂質の合成を支える。
(b) $^{18}\mathrm{F}$-FDG はグルコースの 2 位の水酸基がフッ素に置換された類似体である。ヘキソキナーゼにより FDG-6-リン酸にリン酸化されるが、段階2(ホスホグルコースイソメラーゼ)が必要とする 2 位の水酸基がないため、以降の反応に進めない。リン酸化された FDG-6-リン酸は荷電しているため細胞膜を通過できず、細胞内に蓄積する。がん細胞はワールブルク効果により解糖系が亢進しているため、正常細胞よりも多くの FDG を取り込み蓄積する。この蓄積量の差をPETカメラで検出する。
(c) PFK-1の阻害により、まず段階3以降の代謝フラックスが停止し、ATP産生が低下する。さらに、フルクトース 1,6-ビスリン酸以降の中間代謝物が枯渇するため、3-ホスホグリセリン酸からのアミノ酸合成やピルビン酸からのアセチルCoA供給が断たれる。一方、上流のグルコース 6-リン酸は蓄積するため、ペントースリン酸経路への流入は維持される可能性がある。ただし、がん細胞が必要とする多様な生合成原料の供給が大幅に制限されるため、増殖が著しく抑制されると予想される。
この問題は、代謝経路を「ATPの生産ライン」としてだけでなく、「生合成原料の供給ネットワーク」として理解することを求めています。ワールブルク効果の理解には、解糖系の各中間代謝物がどの生合成経路に分岐するかの知識が必要です。PFK-1阻害の効果を考える際は、代謝フラックスの「弁」を閉じたとき、上流と下流のそれぞれに何が起こるかを体系的に分析する力が問われます。