第15章 生態系と生物多様性の理論

食物網の安定性理論
─ メイの複雑性-安定性パラドックス

「種の数が多く、つながりが複雑な生態系ほど安定している」── 高校生物でも暗黙のうちに前提とされるこの直感は、長いあいだ生態学者の共通認識でした。熱帯雨林は種が豊富で安定しているように見え、農地のような単純な生態系は病害虫に脆い。エルトン(1958)やマッカーサー(1955)もこの考えを支持しました。

ところが1972年、物理学出身の理論生態学者ロバート・メイ(Robert May)は、ランダム行列理論を使って正反対の結論を数学的に導きました。種数が多く、結合が強く密なほど、系はむしろ不安定になりやすい ── これが複雑性-安定性パラドックスです。

では現実の生態系はなぜ安定なのでしょうか。答えは「現実の食物網はランダムではない」という点にあります。本記事では、メイの定理を導出し、それを乗り越える現代の理論(弱い相互作用の安定化効果、非ランダムな構造、キーストーン種)までを一本の筋で追います。

1高校での扱い ─ 食物網と生態系のバランス

食物連鎖と食物網

高校生物では、生態系における生物間のつながりを食物連鎖食物網として学びました。食物連鎖は「植物 → 草食動物 → 肉食動物」のように一本の鎖でエネルギーの流れを表します。しかし、現実の生態系では多くの生物種が複数の種と捕食・被食の関係を持っており、それらが網目のように絡み合ったものが食物網です。

生態系のバランスと生態ピラミッド

高校では、生態系の物質生産について生態ピラミッド(個体数ピラミッド、生体量ピラミッド、生産力ピラミッド)を学びました。各栄養段階でエネルギーの大部分が呼吸で消費されるため、上位の栄養段階ほど利用できるエネルギーが少なくなります。

また、「ある種の個体数が一時的に増えても、捕食者が増えて元に戻る」というように、生態系には自己調節的なバランスが働くと学びました。高校の記述では、このバランスのメカニズムは定性的な説明にとどまっていました。「種が多いほど食物網が複雑になり、1つの種が減っても代わりの餌があるので生態系は安定する」という説明を聞いたことがあるかもしれません。

しかし、「複雑な生態系は本当に安定なのか」を数学的に検証すると、驚くべき結果が現れます。次のセクションでは、この直感的な見方が大学レベルでどのように覆されたかを見ていきます。

2大学の視点 ─ 「複雑=安定」は数学的に正しいか

高校生物 vs 大学生物学
高校:種の数が多く食物網が複雑なほど、生態系は安定すると定性的に理解する
大学:メイ(1972)はランダム行列理論を用い、種数 $S$ と結合度 $C$ が大きいほどむしろ不安定になることを数学的に証明した
高校:生態系の安定性を「バランスが保たれている」という漠然とした表現で理解する
大学:安定性をヤコビ行列の固有値の符号で厳密に定義し、平衡点からの摂動が減衰するか増大するかを数学的に判定する
高校:食物網の構造は記述的に扱い、種間関係の強さは問わない
大学:相互作用の強さ $\alpha$、結合度 $C$、種数 $S$ を定量的パラメータとして扱い、安定条件 $\alpha\sqrt{SC} < 1$ を導く
ここが本質 ─ 複雑性-安定性パラドックス

メイの定理は、ランダムに組み立てた生態系を対象にしたものです。「種数が多い」「結合が密」「相互作用が強い」の三拍子がそろうと、系は数学的に不安定になります。

しかし現実の生態系は、種数が多くても安定しています。これは、現実の食物網がランダムではないからです。弱い相互作用が多数を占めること、栄養段階がはっきりしていること、モジュール構造を持つことなど、安定性を高める非ランダムな構造が存在します。

つまりメイの定理は「複雑な系は安定にならない」と言っているのではなく、「複雑な系が安定であるためには特別な構造が必要だ」と教えてくれているのです。

この議論を理解するには、まず「安定性」を数学的に定義する必要があります。次のセクションでは、多種系の安定性を判定するためのヤコビ行列と固有値の考え方を導入します。

3安定性の数学的定義 ─ ヤコビ行列と固有値

1種系の安定性解析の復習

B-14-1 ロジスティック方程式では、1種の個体群動態 $dN/dt = g(N)$ の安定性を、平衡点 $N^*$ における導関数 $g'(N^*)$ の符号で判定しました。$g'(N^*) < 0$ なら安定、$g'(N^*) > 0$ なら不安定です。これは、平衡点近傍での微小な摂動 $\varepsilon$ が $\varepsilon(t) = \varepsilon_0 e^{g'(N^*)t}$ に従うためです。

この考え方を多種系に拡張するには、1つの数 $g'(N^*)$ の代わりに、行列を使う必要があります。

多種系の一般形

$S$ 種の個体群がそれぞれ $N_1, N_2, \ldots, N_S$ という個体数を持ち、種間の相互作用(捕食・競争・共生など)を含む動態が次のように記述されるとします。

$$\frac{dN_i}{dt} = f_i(N_1, N_2, \ldots, N_S) \quad (i = 1, 2, \ldots, S)$$

平衡点 $\mathbf{N}^* = (N_1^*, N_2^*, \ldots, N_S^*)$ は、すべての種について $dN_i/dt = 0$ が成り立つ状態です。平衡点の安定性を調べるために、各種の個体数に微小な摂動 $\varepsilon_i = N_i - N_i^*$ を加えたときの挙動を解析します。

ヤコビ行列の導入

平衡点のまわりでテイラー展開し、1次の項だけを残すと、摂動の時間発展は次の線形方程式で近似できます。

$$\frac{d\varepsilon_i}{dt} \approx \sum_{j=1}^{S} \left.\frac{\partial f_i}{\partial N_j}\right|_{\mathbf{N}^*} \varepsilon_j$$

ここで登場する偏微分の値を並べた $S \times S$ 行列がヤコビ行列(Jacobian matrix)です。

ヤコビ行列(群集行列)

$$\mathbf{J} = \begin{pmatrix} \dfrac{\partial f_1}{\partial N_1} & \dfrac{\partial f_1}{\partial N_2} & \cdots & \dfrac{\partial f_1}{\partial N_S} \\[8pt] \dfrac{\partial f_2}{\partial N_1} & \dfrac{\partial f_2}{\partial N_2} & \cdots & \dfrac{\partial f_2}{\partial N_S} \\[8pt] \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\[8pt] \dfrac{\partial f_S}{\partial N_1} & \dfrac{\partial f_S}{\partial N_2} & \cdots & \dfrac{\partial f_S}{\partial N_S} \end{pmatrix}_{\mathbf{N}^*}$$

成分 $J_{ij} = \partial f_i / \partial N_j|_{\mathbf{N}^*}$ は、「種 $j$ の個体数が微小に変化したとき、種 $i$ の増殖率がどれだけ変化するか」を表します。生態学ではこの行列を群集行列(community matrix)と呼ぶこともあります。

固有値と安定性の判定

ベクトル表記で摂動の方程式を $d\boldsymbol{\varepsilon}/dt = \mathbf{J}\boldsymbol{\varepsilon}$ と書くと、解は行列指数関数 $\boldsymbol{\varepsilon}(t) = e^{\mathbf{J}t}\boldsymbol{\varepsilon}_0$ になります。この解の長期的な挙動は、$\mathbf{J}$ の固有値(eigenvalues)$\lambda_1, \lambda_2, \ldots, \lambda_S$ で決まります。

固有値は一般に複素数 $\lambda_k = a_k + b_k i$ ですが、安定性に関係するのは実部 $a_k$ だけです。

  • すべての固有値の実部が負($a_k < 0$)→ すべての摂動が減衰 → 安定
  • 1つでも実部が正の固有値がある($a_k > 0$)→ その方向の摂動が増大 → 不安定

1種系では「$g'(N^*) < 0$ なら安定」でしたが、これは $1 \times 1$ 行列の「固有値」が $g'(N^*)$ そのものであることに対応しています。多種系では、$S$ 個の固有値すべてを調べなければならないのです。

固有値の「実部」が鍵

注意:固有値が複素数でも、安定性は実部だけで判定します。虚部は振動の有無を決めます(虚部があれば振動しながら減衰/増大する)。「固有値が負」ではなく「固有値の実部が負」であることが安定の条件です。

ヤコビ行列と固有値を使えば、どんなに多くの種が関わる系でも安定性を判定できます。しかし現実の食物網では種数が数十から数百にもなり、具体的な $f_i$ の関数形もわかりません。メイはこの困難を「ランダム行列理論」によって乗り越えました。次のセクションで、その巧妙な議論を見ていきます。

4メイの安定性条件の導出 ─ ランダム行列理論

メイの問いの立て方

1972年、ロバート・メイ(Robert May)は次のような問いを立てました。「もし生態系をランダムに組み立てたら、種数が増えるほど安定しやすいのか、それとも不安定になりやすいのか」。

具体的な種や相互作用の詳細を知る必要はありません。メイの天才的なアイデアは、ヤコビ行列をランダム行列として扱い、その固有値の統計的な性質から安定性を論じることでした。

ランダム群集行列の設定

メイは次のように群集行列 $\mathbf{A}$ を構成しました。

  • $S$ 種の系を考える
  • 対角成分は $A_{ii} = -1$(自己調節項。各種は自分自身に対して負のフィードバックを持つ。これはロジスティック方程式の $-rN/K$ 項に相当)
  • 非対角成分 $A_{ij}$($i \neq j$)は、確率 $C$ でゼロでない値をとり、確率 $1 - C$ でゼロとする。$C$ を結合度(connectance)と呼ぶ。$C = 1$ ならすべての種が相互作用し、$C = 0$ なら種間相互作用がない
  • ゼロでない非対角成分は、平均0、分散 $\alpha^2$ の分布から独立にランダムに抽出する。$\alpha$ は相互作用の平均的な強さを表す

パラメータは3つです。$S$(種数)、$C$(結合度)、$\alpha$(相互作用強度)。メイの問いは、「$\mathbf{A}$ のすべての固有値の実部が負である(系が安定である)確率は、$S$, $C$, $\alpha$ にどう依存するか」と定式化できます。

ウィグナーの半円法則

ここでメイが利用したのが、物理学で原子核のエネルギー準位を研究するために発展したランダム行列理論です。物理学者ユージン・ウィグナー(1958)は、大きなランダム行列の固有値の分布に関する驚くべき普遍法則を発見していました。

$S \times S$ のランダム行列 $\mathbf{B}$(各成分が平均0、分散 $\sigma^2$ の独立な確率変数)の固有値を考えます。$S$ が十分大きいとき、固有値の実部は区間 $[-2\sigma\sqrt{S},\; 2\sigma\sqrt{S}]$ にほぼ収まります。これがウィグナーの半円法則の帰結です。固有値の分布の「広がり」は $\sigma\sqrt{S}$ に比例するのです。

導出:メイの安定性条件

メイの群集行列 $\mathbf{A}$ は、次のように分解できます。

$$\mathbf{A} = -\mathbf{I} + \mathbf{B}$$

ここで $\mathbf{I}$ は $S \times S$ の単位行列、$\mathbf{B}$ は非対角成分にランダムな相互作用を持つ行列です。

$\mathbf{A}$ の固有値 $\lambda$ は、$\mathbf{B}$ の固有値 $\mu$ を使って $\lambda = -1 + \mu$ と表せます。

$\mathbf{B}$ の非対角成分のうち、ゼロでないものの割合は $C$、その分散は $\alpha^2$ です。全体として、非対角成分の分散は $\sigma^2 = C\alpha^2$ です。

ウィグナーの半円法則により、$\mathbf{B}$ の固有値の実部の最大値は $S$ が大きいとき近似的に $2\sigma\sqrt{S} = 2\alpha\sqrt{SC}$ です。

したがって $\mathbf{A}$ の固有値の実部の最大値は近似的に $-1 + 2\alpha\sqrt{SC}$ です。

すべての固有値の実部が負であるための条件は

$$-1 + 2\alpha\sqrt{SC} < 0$$

すなわち

$$\alpha\sqrt{SC} < \frac{1}{2}$$

注:文献によって係数が異なりますが、これは非対角成分の分布の対称性の仮定の違いによります。メイの原論文では対称性を仮定しないモデルで $\alpha\sqrt{SC} < 1$ という形で結果を述べています。

メイの安定性条件(May, 1972)

$$\alpha\sqrt{SC} < 1$$

$S$:種数、$C$:結合度(種のペアが相互作用する確率)、$\alpha$:相互作用の平均的な強さ(非対角成分の標準偏差)。
この条件が満たされるとき、ランダムに組み立てた群集は安定である確率が高い。条件が破れると、ほぼ確実に不安定になる。

メイの条件が意味すること

$\alpha\sqrt{SC} < 1$ という条件を読み解きましょう。

  • 種数 $S$ が増えると $\sqrt{SC}$ が大きくなるため、条件を満たしにくくなる → 不安定化
  • 結合度 $C$ が高い(種間のつながりが密)と同様に不安定化
  • 相互作用強度 $\alpha$ が大きいほど不安定化

つまり、「種が多い」「結合が密」「相互作用が強い」のいずれも安定性を損なう方向に働きます。これは「複雑な生態系ほど安定だ」という従来の直感と正反対です。これがメイの複雑性-安定性パラドックスです。

深掘り:メイと物理学の出会い

ロバート・メイはもともとオーストラリア出身の理論物理学者でした。超伝導や統計力学を研究していた彼が生態学に転向したのは1970年代のことです。ランダム行列理論を生態学に持ち込んだのは、物理学の道具が異分野で威力を発揮した見事な例です。メイはその後、感染症の数理モデル(HIV/AIDSの流行予測)でも大きな貢献をし、2000年にはイギリス王立協会会長に就任しました。

メイの理論はランダムな群集に対する結果です。しかし現実の生態系はランダムではありません。次のセクションでは、「現実の食物網はなぜメイの不安定化条件を回避できるのか」という核心的な問いに答えます。

5現実の食物網はなぜ安定か ─ 非ランダムな構造の力

弱い相互作用の安定化効果

メイのモデルでは、ゼロでない相互作用の強さは分散 $\alpha^2$ の分布からランダムに抽出されます。しかし現実の食物網を調べると、相互作用の強さの分布は大きく偏っていることがわかります。ごく少数の強い相互作用と、多数の弱い相互作用が共存しているのです。

マッキャン(Kevin McCann)らは1998年の論文で、この「弱い相互作用が多数を占める」構造が系の安定性を大幅に高めることを理論的に示しました。弱い相互作用は、強い相互作用が引き起こす個体数の大きな振動を抑制するダンパー(緩衝材)として機能するのです。

直感的には、捕食者Aが被食者Bを強く食べるとBの個体数が激しく変動しますが、捕食者Aがほかの種C, D, Eも弱く食べていれば、Bが減ったときにC, D, Eに切り替えることでBへの圧力が緩和されます。この「食べ物の切り替え」が、系全体の振動を減衰させるのです。

相互作用の非対称性

メイのモデルでは $A_{ij}$ と $A_{ji}$ が独立にランダムに決まりますが、現実の捕食関係では、捕食者が被食者に及ぼす影響と、被食者が捕食者に及ぼす影響は符号が逆になります(捕食者は被食者の個体数を減らし、被食者は捕食者の個体数を増やす)。

このような符号の構造(捕食: $A_{ij} > 0, A_{ji} < 0$)は、ランダムな符号の割り当てよりも安定性を高める傾向があることが示されています。特に、栄養段階がはっきりした食物網(植物 → 草食者 → 肉食者)の構造は、ランダムなネットワークと比べて安定化に寄与します。

モジュール構造とネスト構造

現実の食物網には、いくつかの種が密に結合したグループ(モジュール)が存在し、モジュール間のつながりは比較的疎であるという構造が見られます。このモジュール構造は、ある部分で発生した攪乱(ある種の急減など)が系全体に伝播するのを防ぐ「防火壁」の役割を果たします。

また、特に送粉ネットワーク(植物と花粉媒介者の関係)などではネスト構造が見られます。これは、相互作用の少ない種(スペシャリスト)が相互作用の多い種(ジェネラリスト)のサブセットとだけ関わるという構造です。この構造も安定性を高めることが理論的に示されています。

メイの条件を乗り越える ── まとめ

メイのランダムモデル現実の食物網の特徴安定化のメカニズム
相互作用の強さが均一な分散多数の弱い相互作用 + 少数の強い相互作用弱い相互作用が振動を抑制(マッキャン)
符号がランダム栄養段階に沿った符号の構造捕食-被食の符号構造が安定化に寄与
ランダムな結合パターンモジュール構造・ネスト構造攪乱の伝播を局所化・種の共存を促進
メイのパラドックスの解答

メイの定理は「複雑な系が安定であるのは自明ではない」ことを示しました。これに対する現代の答えは、「自然選択と共進化の長い歴史を通じて、安定性を維持できる非ランダムな構造だけが生き残った」というものです。

つまり、現在の生態系が安定しているのは「複雑だから安定」なのではなく、「安定でいられる構造を持つ系だけが現在まで存続している」からです。これは進化論的な視点からの説明であり、メイの数学と矛盾しません。

非ランダムな構造が安定性を高めるとわかったところで、次のセクションでは、食物網の安定性を理解する上で重要な応用概念であるキーストーン種と栄養カスケードを取り上げます。

6応用・発展 ─ キーストーン種と栄養カスケード

キーストーン種の数学的理解

高校生物でも名前は聞いたことがあるかもしれません。キーストーン種(keystone species)とは、その種の個体数や活動が、生態系の構造と機能に対して自身のバイオマス(生体量)から予想されるよりもはるかに大きな影響を及ぼす種のことです。ペイン(Robert Paine, 1966)がヒトデ(Pisaster ochraceus)を潮間帯から除去した実験で提唱しました。

ヤコビ行列の観点から、キーストーン種を数学的に理解できます。キーストーン種を系から除去すること(対応する行と列を $\mathbf{J}$ から削除すること)は、残った系のヤコビ行列の固有値を大きく変えます。キーストーン種が除かれると、もとは安定だった平衡点が不安定化し、一部の種が絶滅に至るカスケード的絶滅が起こりえます。

ペインの実験では、ヒトデを除去すると、それまでヒトデに捕食されて抑えられていたムラサキイガイが爆発的に増殖し、岩場を独占しました。その結果、もともと岩場に付着していた藻類やフジツボなどが消失し、15種いた生物が8種に減少しました。たった1種の除去が、食物網全体の構造を崩壊させたのです。

栄養カスケード

栄養カスケード(trophic cascade)とは、ある栄養段階の生物の増減が、食物連鎖を通じて離れた栄養段階にまで波及する現象です。

最も有名な例は、アメリカのイエローストーン国立公園へのオオカミの再導入(1995年)です。オオカミ(頂点捕食者)がいなかった時代、エルク(ヘラジカ)が増えすぎて川辺の植物を食べ尽くし、川岸の浸食が進んでいました。オオカミが再導入されると次のカスケードが起こりました。

  1. オオカミがエルクを捕食 → エルクの個体数が減少
  2. エルクによる過剰採食が緩和 → 川辺のヤナギやポプラが回復
  3. 植生の回復 → ビーバーが戻り、ダムを作る
  4. ビーバーのダム → 河川の形状が変化し、魚類の生息地が回復

頂点捕食者の追加が、3つ以上の栄養段階を超えて生態系の物理的構造まで変えたのです。

安定性理論から見た栄養カスケード

栄養カスケードをメイの安定性理論の文脈で考えると、次のように理解できます。頂点捕食者は食物網の中で特に大きな間接効果を持っています。ヤコビ行列の固有値構造に対して、頂点捕食者の行・列は(直接結合する種は少なくても)間接的に多くの固有値に影響します。

したがって、頂点捕食者の除去は系の安定性を大きく変える可能性があります。これは、高校で学んだ「生態系のバランス」が、すべての種が等しく重要なのではなく、ネットワーク上の位置によって貢献の大きさが異なることを意味しています。

深掘り:構造安定性と数値安定性

メイの議論で扱った「局所安定性」(平衡点からの摂動が減衰するか)は、安定性のひとつの定義にすぎません。生態学ではほかにも「レジリエンス」(攪乱後に元の状態に戻る速さ)、「抵抗性」(攪乱に対してどれだけ変化しにくいか)、「構造安定性」(パラメータが少し変わっても定性的な振る舞いが変わらないか)など、複数の安定性概念が区別されています。メイの定理はこれらすべてに当てはまるわけではなく、安定性の多面性を認識することが現代の生態学では重要です。

メイの複雑性-安定性パラドックスは、生態学の根本的な問いに数学的な枠組みを与え、その後の半世紀にわたる研究の出発点となりました。「なぜ自然界の食物網はこの構造を持つのか」という問いは、進化と生態学の交差点にある、今も活発に研究が続くテーマです。

7つながりマップ

Sまとめ
  • 多種系の安定性は、平衡点におけるヤコビ行列(群集行列)の固有値で判定される。すべての固有値の実部が負であれば安定であり、1つでも正のものがあれば不安定である
  • メイ(1972)はランダム行列理論を用いて、ランダムに組み立てた群集の安定性条件 $\alpha\sqrt{SC} < 1$ を導いた。これにより、種数・結合度・相互作用強度が大きいほど不安定になることが示された(複雑性-安定性パラドックス)
  • 現実の食物網がメイの条件にもかかわらず安定なのは、ランダムではない構造を持つためである。弱い相互作用の卓越、栄養段階に沿った符号構造、モジュール構造・ネスト構造などが安定性を高める
  • キーストーン種の除去が食物網全体を不安定化させる現象は、ヤコビ行列の固有値構造の大きな変化として理解できる。栄養カスケードはその具体的な現れである
  • メイの定理は「複雑な生態系は安定にならない」ではなく、「安定であるためには特別な構造が必要である」と読むべきであり、自然選択が安定な構造を選び取ってきた結果が現在の食物網である

9確認テスト

理解度チェック

Q1. メイの安定性条件 $\alpha\sqrt{SC} < 1$ において、$S$, $C$, $\alpha$ はそれぞれ何を表すか答えてください。

クリックして解答を表示 $S$ は種数(系に含まれる生物種の数)、$C$ は結合度(任意の2種が相互作用する確率、0から1の値をとる)、$\alpha$ は相互作用の平均的な強さ(群集行列の非対角成分の標準偏差)です。

Q2. 多種系の安定性を判定するために用いるヤコビ行列の成分 $J_{ij}$ は、生態学的に何を意味しますか。

クリックして解答を表示 $J_{ij} = \partial f_i / \partial N_j|_{\mathbf{N}^*}$ は、平衡点において「種 $j$ の個体数が微小に変化したとき、種 $i$ の個体数の増殖率がどれだけ変化するか」を表します。つまり、種 $j$ が種 $i$ に及ぼす影響の強さと方向(正 = 促進、負 = 抑制)を定量化したものです。

Q3. メイの理論によれば、ランダムな食物網は種数が増えるほど安定になりますか、それとも不安定になりますか。その理由を $\alpha\sqrt{SC} < 1$ を用いて説明してください。

クリックして解答を表示 不安定になります。$\alpha$ と $C$ が一定のまま種数 $S$ が増えると、$\alpha\sqrt{SC}$ の値が大きくなり、条件 $\alpha\sqrt{SC} < 1$ を満たしにくくなるためです。つまり、ランダムな食物網では種数の増加は安定性を損ないます。

Q4. 現実の食物網がメイの予測に反して安定な理由として、弱い相互作用の安定化効果はどのようなメカニズムで働きますか。

クリックして解答を表示 弱い相互作用は、強い相互作用が引き起こす個体数の大きな振動を抑制するダンパー(緩衝材)として機能します。捕食者が複数の被食者と弱い相互作用を持つことで、特定の被食者の個体数が減少したとき他の種に切り替えが起こり、特定の種への圧力が緩和されます。この効果により系全体の振動が減衰し、安定性が高まります。

10演習問題

問1 A 基本計算

メイの安定性条件 $\alpha\sqrt{SC} < 1$ を用いて、以下の各ケースでランダム群集が安定かどうかを判定してください。

(a) $S = 10$, $C = 0.5$, $\alpha = 0.3$

(b) $S = 100$, $C = 0.1$, $\alpha = 0.3$

(c) $S = 100$, $C = 0.1$, $\alpha = 0.1$

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解答

(a) $\alpha\sqrt{SC} = 0.3 \times \sqrt{10 \times 0.5} = 0.3 \times \sqrt{5} \approx 0.3 \times 2.24 = 0.67 < 1$。安定の可能性が高い。

(b) $\alpha\sqrt{SC} = 0.3 \times \sqrt{100 \times 0.1} = 0.3 \times \sqrt{10} \approx 0.3 \times 3.16 = 0.95 < 1$。ぎりぎり安定。わずかなパラメータの変化で不安定化しうる。

(c) $\alpha\sqrt{SC} = 0.1 \times \sqrt{100 \times 0.1} = 0.1 \times \sqrt{10} \approx 0.1 \times 3.16 = 0.32 < 1$。安定の可能性が高い。

解説

(b) と (c) は種数と結合度が同じですが、相互作用強度が異なります。$\alpha$ を 0.3 から 0.1 に下げると安定性が大幅に向上します。これは「弱い相互作用が多い方が安定」というマッキャンの結果と整合します。

問2 A 基本概念

次の記述が正しいか誤りかを判定し、誤りの場合は正しく訂正してください。

(a) メイの定理によれば、すべての複雑な生態系は不安定である。

(b) ヤコビ行列の固有値のうち、1つでも実部が正のものがあれば、系は不安定と判定される。

(c) 結合度 $C = 0$ の系(種間相互作用がまったくない)では、メイの安定性条件は常に満たされる。

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解答

(a) 誤り。メイの定理は「ランダムに組み立てた」群集に対する結果です。正しくは「ランダムな群集では、複雑さが増すほど不安定になりやすい」です。現実の非ランダムな構造を持つ複雑な生態系は安定でありえます。

(b) 正しい。固有値の実部が正の摂動方向では、摂動が時間とともに増大するため、平衡点は不安定です。すべての固有値の実部が負でなければ安定とは言えません。

(c) 正しい。$C = 0$ のとき $\alpha\sqrt{SC} = \alpha\sqrt{S \times 0} = 0 < 1$ なので、条件は常に満たされます。種間相互作用がなければ各種は独立にロジスティック成長するだけなので、安定になります。

問3 B 安定性解析

2種系のヤコビ行列が次のように与えられています。

$$\mathbf{J} = \begin{pmatrix} -1 & -0.5 \\ 0.5 & -1 \end{pmatrix}$$

(a) この行列が表す種間関係は何か(捕食-被食、競争、相利共生のいずれか)。根拠とともに答えてください。

(b) この行列の固有値を求めてください。

(c) 平衡点は安定か不安定か、理由とともに答えてください。

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解答

(a) 捕食-被食関係です。$J_{12} = -0.5 < 0$(種2が増えると種1の増殖率が下がる)、$J_{21} = 0.5 > 0$(種1が増えると種2の増殖率が上がる)なので、種1は被食者、種2は捕食者です。

(b) 固有方程式 $\det(\mathbf{J} - \lambda\mathbf{I}) = 0$ を計算します。

$$(-1 - \lambda)^2 - (-0.5)(0.5) = 0$$

$$\lambda^2 + 2\lambda + 1 + 0.25 = 0$$

$$\lambda^2 + 2\lambda + 1.25 = 0$$

$$\lambda = \frac{-2 \pm \sqrt{4 - 5}}{2} = \frac{-2 \pm \sqrt{-1}}{2} = -1 \pm \frac{1}{2}i$$

(c) 固有値は $\lambda = -1 + 0.5i$ と $\lambda = -1 - 0.5i$ です。いずれも実部が $-1 < 0$ なので、平衡点は安定です。虚部があるので、平衡点に向かって減衰振動しながら収束します。

解説

2種の捕食-被食系で、自己調節項(対角成分 $= -1$)が十分に強いため、系は安定です。虚部の存在は、個体数が振動しながら平衡に戻ることを意味します。これはロトカ・ヴォルテラ捕食モデルに減衰項を加えた場合に対応しています。

問4 B 応用

ある生態系に $S = 50$ 種がおり、結合度は $C = 0.2$ です。

(a) メイの安定性条件から、この生態系がランダムであると仮定した場合に安定であるための相互作用強度 $\alpha$ の上限を求めてください。

(b) この生態系の種数が $S = 200$ に増加した場合($C$ は変わらないと仮定)、$\alpha$ の上限はどう変わりますか。

(c) (a) と (b) の結果から、「種数が増えるほど安定性を保つのが難しくなる」理由を説明してください。

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解答

(a) $\alpha\sqrt{SC} < 1$ より $\alpha < 1/\sqrt{SC} = 1/\sqrt{50 \times 0.2} = 1/\sqrt{10} \approx 0.316$。

(b) $\alpha < 1/\sqrt{200 \times 0.2} = 1/\sqrt{40} \approx 0.158$。

(c) 種数が4倍(50→200)になると、安定性を維持できる $\alpha$ の上限は約半分(0.316→0.158)に低下します。つまり種数が増えるほど、安定性を保つためには相互作用をより弱くしなければなりません。ランダムな食物網では、種数の増加は安定性への制約を厳しくします。

問5 C 発展

メイの安定性条件 $\alpha\sqrt{SC} < 1$ を踏まえて、次の問いに答えてください。

(a) 結合度 $C$ と種数 $S$ が与えられたとき、安定性を保てる最大の $\alpha$ を $S$ と $C$ の関数として表してください。

(b) 現実の食物網データでは、$C$ は $S$ の増加に伴い減少する傾向がある(おおよそ $C \propto S^{-1}$ 程度)ことが知られています。もし $C = c_0/S$($c_0$ は定数)であるとすると、安定性条件はどのように簡略化されますか。

(c) (b) の結果は、「現実の食物網では結合度が種数に応じて調整されている」と解釈できます。この「調整」が生じるメカニズムとして考えられる仮説を1つ述べてください。

(d) メイのモデルでは対角成分を $-1$ と仮定しましたが、これが $-d$($d > 0$)であるとき、安定性条件はどう変わりますか。

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解答

(a) $\alpha\sqrt{SC} < 1$ より、$\alpha_{\max} = 1/\sqrt{SC}$ です。

(b) $C = c_0/S$ を代入すると、$\alpha\sqrt{S \cdot c_0/S} = \alpha\sqrt{c_0} < 1$、つまり $\alpha < 1/\sqrt{c_0}$ です。安定性条件から種数 $S$ が消え、相互作用強度 $\alpha$ と定数 $c_0$ だけで安定性が決まります。これは、結合度が種数に反比例する場合、種数をいくら増やしても安定性条件は変わらないことを意味します。

(c) 考えられる仮説の一例:種数が多い群集では、各種が利用できる資源が細分化され、直接的な相互作用を持つ種の割合が低下する(ニッチ分割の進行)。あるいは、結合度が高すぎる群集は過去に不安定化して崩壊し、結合度が適度に低い群集だけが存続している(自然選択的なフィルタリング)。

(d) 対角成分が $-d$ の場合、群集行列は $\mathbf{A} = -d\mathbf{I} + \mathbf{B}$ となり、固有値は $\lambda = -d + \mu$($\mu$ は $\mathbf{B}$ の固有値)です。安定条件は $-d + 2\alpha\sqrt{SC} < 0$、すなわち $\alpha\sqrt{SC} < d/2$(あるいは原論文の形式では $\alpha\sqrt{SC} < d$)です。自己調節の強さ $d$ が大きいほど、安定性条件が緩和されます。

解説

(b) の結果は特に重要です。現実の食物網で観測される $C \propto S^{-1}$ のパターンは、メイの安定性条件と整合的です。もし $C$ が $S$ によらず一定であれば、種数の増加に伴い $\alpha\sqrt{SC}$ が際限なく増大し、いつか不安定化します。しかし $C$ が $S$ に反比例して減少すれば、この問題が回避されるのです。これは「自然はメイの法則を知っているかのように、結合度を調整している」とも読める興味深い結果です。